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【長編小説】(53)青く沈んだ夜明けの向こう

扉を抜けると、高い塔の天辺にあるはずのそれは青い地平に繋がっていた。
青い花畑を踏み締める。足元で死んだ花弁が舞う。振り返ると、通ってきたはずの扉は消えていた。もうこんなことに驚くような俺ではない。扉があったはずの場所、やがて死ぬ夜を背景に立つ白を睨め付ける。

「……鯨が好きなのは、瑠璃じゃない」
「ええ、そうです。僕ですよ」
淡く微笑む鈍色の瞳の向こうを流れていく鯨の腹から、赤い血が流れている。
「戦争で両親を亡くし、生きる場所を求めて陸を歩いた。でもそこに僕たちの生きる場所はなく、今、2人だけの青い世界にいる。陸に居場所がなくて海に帰った鯨と僕たち、似ているでしょう?」
「ここは瑠璃の世界じゃなく、お前の世界だった。だからあいつの意思を無視して、外に繋がる鳥居を出さない。世界の主であるお前はあいつをここに閉じ込めておきたいから」
「閉じ込めるだなんて、人聞きの悪い。僕は守っているんですよ。外の世界は危険なことだらけですから」
「でも、ここにいたらいつか世界の崩壊に巻き込まれるんだろう?」
「あんな惨たらしい死を繰り返すよりマシだ」
白は語気を強めて、
「あんな世界より、永遠にここにいる方が、ずっといい」
自らに言い含めるように。

低く唸る空がひび割れ、落ちていく。その向こうにはまた同じ空があり、また割れて、落ちて。夜と朝がない混ぜになって降ってくる。遠くの地平に落ちた空が、土煙を上げて青い花を吹き飛ばした。
猩々の世界の終わりに似ている。扉の向こうに隠した過去を思い出して、こいつは全てを諦めたのだろうか。

「瑠璃はお前の中にいるんだろう?返せよ」
「返す?誰に?まさかあなたに返せとでも言うんです?彼女があなたのものであった時など一度だってないのに」
「ちげえ。瑠璃に返せっつってんだ」
「はい?」
「あいつの人生はあいつのものだ。自分は自分のもの。他の誰のものにもならない。例え姉弟であろうと、あいつはお前のものじゃない」
俺の言葉を、白はせせら笑い、
「何を偉そうに。あなたに僕たちの何がわかると言うのです?僕らの苦しみの、絶望の、悲しみの何を理解できると?戦争のない平和な世界に生まれて、たかが母親1人死んだくらいでべそかいていたあなたが」
「……お前は、本当にそう思っているのか?」
俺にはこいつが強がっているように見える。
「この世界に瑠璃と2人で閉じこもっていたいなら、どうして俺を呼んだ?毎度毎度鳥居を出したのはお前だろう。いつもまた来てくれって、瑠璃を嫌いにならないでくれって、どうしてお前はあんなことを言った?」
「さあ、何でしょうね。全て思い出した今、どうして自分があんなどうしようもないことをしていたのか僕自身さえわかりません。どうかしていたんです、きっと」
「そうじゃねえだろ。お前は助けて欲しかったんだ。このままじゃいけないって、思ってたんだ。じゃないと説明がつかない」
「説明はつきますよ。僕はどうかしていた。それだけです」
「ああもう!埒が明かねえ!」

白の腕を掴むと、ひび割れた表面のかけらが落ちた。鱗のように、キラキラと虹色に輝いて地面へ。彼の輪郭がチラリとブレて、濃紺の髪が揺れたような気がした。

「はっ、離せ!」
「お前がここに閉じこもっていたいって言うなら、好きにすればいい。でもあいつを道連れにするのは許さない。お前とあいつは他人なんだから」
「他人じゃない。姉弟だ」
「家族だって他人だ。お前は瑠璃じゃない。瑠璃がお前じゃないのと同じように」
「姉さんは僕が守るんだ」
俺の手を振り払おうともがく腕は弱々しく、まるで女性の細腕を握りしめているようだ。こんな腕で何を抱えられると問いたくなるが、ぐっと堪えて、
「もう、あいつは大人だ。小さい痩せぎすの子供じゃない。まあ、もう少し太った方がいいと思うが……お前が守らなくたって、閉じ込めなくたって、あいつは生きていくだろうよ」
「そんなのっ」
「あいつはきっとうまくやる。いつも冷静だし、俺よりずっと頭がいいし、たくさんのことを知っている。ここで読んだ本の知識は、きっとあいつの人生の支えになる。困ったときに、助けてくれる」
「だから外に出せと?あなたはバカですね。どんなに優秀な人間でも、1人じゃどうしようもないことなど世の中には山とあるのをご存知ないので?」
「知ってるさ。身をもって、理解してる」
「なら、」
「だから、もしもあいつが1人で立っていられなくなったら、その時は俺が支える」

凍った湖に亀裂が入るような、鋭く尖った音がした。音の方を仰ぐと、崩れた空の向こうに先の見えない暗闇が覗いていた。星の瞬きひとつない宇宙空間のような、”虚無”という表現が何よりしっくりくる色だ。
白の腕を握っていた手にがくりと沈む感覚があって、視線を戻すと、地面にうずくまる白のつむじが見えた。その真ん中から、鈍色が濃紺へ変わっていく。
鈍色の短髪が濃紺のミディアムヘアに、左前の和服がオーバーサイズのシャツと黒のパンツへ、素足は小さく縮んで、肩骨がほっそりと落ちる。

「瑠璃?」

うずくまる彼女の周りで、青い花がみるみる枯れて色褪せていく。冷たい風が吹き荒み、灰のように崩れる花弁をさらっていく。死んだ太古の海洋生物たちが宙を漂う。微かな死臭が鼻をついた。


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