見出し画像

【長編小説】(55)青く沈んだ夜明けの向こう

雑踏のざわめきと、ヒステリーな車のクラクション。子供の笑い声、女性のヒールの硬質な音、コンクリートと排気ガスの匂いと、青信号を伝える間の抜けたメロディ。
踏み出した先、太陽の透明な光に慣れた視界には、見慣れた街の大通りが広がっていた。

「……は?」

スマートフォンを耳に当てたサラリーマンが、煙たげな視線をこちらに向けつつ歩いていく。広い歩道のど真ん中に立つ俺たちを、邪魔そうな顔をした人並みが避けていく。ひとまず3歩後ろに下がって、薄暗い路地の日陰に立つ。

「……玄、ここは……」
「俺が住んでる街だ」
「やっぱり、君にもそう見えるんだな」
「なんだそれは、どういう確認だ」
「いや、だって、さっきまで私たちは……」
少しの沈黙。2人同時に背後を振り返った。
「……鳥居、ないな」
溜息のように彼女は呟いた。
「あの世界は消えてしまったんだろうか」

”寄る辺ない”という言葉は、きっと今の彼女のためにある。
糸が切れた凧のような、風にさらわれた新緑のような、寄り添っていた大木を失った蔓性植物とか、雲から溢れた粉雪とか。
雑居ビルに挟まれた薄暗い空間を映す濃紺の瞳は、あの世界の姿を探している。無表情の上に微かな不安を乗せた横顔は、もうここにあの世界がないことを知りながらその残滓を求めている。
ビル風が吹き荒び、彼女が飛んでいってしまうのではないかと不安になって繋いだ手に力を込めると、小さく湿った笑い声がした。

「大丈夫だ。君が思っているほど、私は脆くない」

こちらを仰いだ彼女の赤らんだ目元を見たら、どうしようもない衝動が押し寄せた。凧の糸に、親木と葉を繋ぐ茎に、朽ちた大木の代わりに、俺はなりたい。どうしたらいいだろう。寂しくて悲しくてどうしようもない気持ちだった時、俺は何が欲しかっただろう。
握った手を引き寄せて、痩せた身体を腕の中へ。力一杯抱きしめると、温かくも冷たくもないと思った彼女の中に確かに生きる温もりと鼓動を感じた。
死にゆく彼女と一つになりたいと思った、白の気持ちが今ならわかる。
ひとつになれば、置いていかれることはない。大切な彼女を奪われることも、害されることもない。ずっと一緒にいられる。いつかやってくる終わりを、一緒に迎えることができる。
けれど、ひとつになってしまったらこうして抱きしめることができない。体温を感じることができない。言葉を交わし、時にぶつかり、慰め合うことさえできなくなる。そんなのは嫌だ。
強くなるしかない。大切なものを守り抜き、どんな障壁も粉砕する拳とどこまでも彼女を引っ張って走っていける両足が必要だ。例え彼女がつまずき、転び、立ち止まってうずくまっても抱え上げて進んでいけるような。
そんな人間になれるだろうか。自分ことばかりに精一杯な俺に、彼女を守れるだろうか。いや、なれるかどうかではない。なるしかない。おずおずと俺の背中に触れる、不器用な彼女の指先に報いるために。

「玄」
「お前が拒絶しても俺は離さないからな。絶対にもう、死なせない」
「いや、その、玄、」
「絶対にお前をひとりぼっちにはしない。大丈夫だ。俺は結構丈夫にできているから」
「そういうことじゃなくてだな、」
「生活は……まあ、最初は少し苦労させるかもしれないが、俺が働くから大丈夫だ。こう見えて俺は結構勤勉だ」
「まあ、それは君の勉強姿を見てて知ってるが、今はそういう話じゃなくて」
腕の中でモゾモゾと身を捩る瑠璃に違和感を覚える。まるで俺から離れようとしているみたいで、逃げられないよう腕に力を込めた。
「うげっ」
潰れたカエルのような声がした。
「玄、苦しい」
「離さないぞ。俺は結構力がある方だ」
「それも知ってる、が……ああもう!違うって言ってるだろ!」
「何が違うんだ!」
「子供が見てる!」
「子供か!子供……こども?」

振り返ると、大通りの光の中からこちらをじっと見つめる瞳があった。小学校に上がる直前くらいの子供の、ふっくらとした頬が透明な光に照らされている。不意に立ち止まった我が子の様子を窺うべくしゃがみ込んだ母親らしき女性に向かって「見て、ママ。仲良ししてる」などと言ってこちらを指差すものだから、俺たちは弾かれるように離れて各々左右の壁に張り付いた。

「仲良し?……あら。……まあ、ママもお父さんと恋愛してた時はあんな感じだったわ」
女性がこちらを見て、何やら含みのある表情を浮かべ、
「レンアイってなあに?」
キョトン顔の我が子に、慈愛に満ちた表情を向ける。
「相手のことが大好きで大好きで仕方のない気持ちになることよ」
「だいすきって、どれくらい?」
「もう食べちゃいたい!ってくらい」
「ママはパパを食べちゃったの?」
「食べてないわよ。……まあ、そうねえ……あなたも大人になればわかるわ」
「食べたいけど食べないきもちを?」
「まあ、そんなところ」

立ち上がった女性は子供の手を引き、「お邪魔しました」と去っていった。
無知な子供に対してあんな説明でいいものなのだろうかと抱いた疑問はすぐに消え、あの女性の目に俺たちは恋人同士に見えたのかと思ったら顔から血が噴き出しそうな気持ちになった。何を話そうかと横目に瑠璃を盗み見ると、彼女はどこか恍惚とした表情で彼らが去った光の中を眺めていて。

「彼らに、私たちはレンアイしてるように見えたのか」
道端に見慣れぬ花を見つけた時の独り言みたいに言うものだから、
「え?違うのか?」
思わず条件反射で言葉がこぼれて、パッとこちらを向いた彼女に心臓が跳ね上がる。
「えっと、あの……そうじゃなくて、だな」
「何だ、君は私を食べたいのか?」
「いや、そう言うわけじゃ」
「奇遇だな。私も、君の胸鎖乳突筋は美味そうだと思ってたんだ」
「きょうさ……え?」
「首の、ここのところの筋肉だ」

自分の細い首を人差し指でなぞって、彼女は微かに笑って見せた。それが俺には喪失と悲しみと孤独を覆った薄っぺらいものにしか見えなくて、何て声を掛けたらいいのかわからない。じっと黙っていたら困ったような溜息が聞こえて、自分の不甲斐なさに情けない気持ちになる。

「……冗談だ」
「え?ああ、冗談……冗談だったのか。すまない」
「いや、謝るな。君は……」
言葉を探すように彼女は言い淀み、
「君は正しい。いつだって、君は最良を求めて考え続けていた。考え続ける限り、その選択は間違わない。自信を持て」

大通りの光の方を向いて、瑠璃は眩しそうに目を細めた。ずっと明け方の仄かな明かりの中にいた彼女にとって、これはいつぶりの光なのだろう。適応できるのだろうか。ここで、生きて行けるのだろうか。

「……瑠璃、」
「そんな顔をするな。別に、あの世界が無くなったからって、首を吊ったりしないから」
傷心の彼女にまで心配される俺は、今どんな顔をしているのだろう。
「大丈夫だと言えば、嘘になる。小さな白が壁に叩きつけられて死んだあの光景はずっと昔のものだが、感覚的には、ついこの間のことと大差ない」
「それは、あの世界に行ってからずっとそのことを忘れていたからか?」
「わからないが、きっとそうだろうな」
「なら、お前は……」
最愛の人をついこの間2度も喪ったことになる。白のひび割れた腕に触れた時に見たあの光景と、壊れる世界にひとり残った彼。赤の他人の俺から見ても、それはとても……
「辛いだろう。内臓が捩じ切れてしまいそうなほど、それは……」

俺はずっと、そんな大切なもののない人生を送ってきた。物心ついた時には両親はもう遠いものになっていて、生まれの悪い自分に愛だの恋だの友情などは無縁のものだと諦めて、人と距離をとって生きてきた。
そんな俺にだって理解できる。きっと瑠璃が心に抱えているのは、俺が理解しているものよりずっと重く冷たく悲しいものだ。なのに彼女は微笑んでいる。まるで憑き物が落ちたような顔をして。俺の表情を窺って、「よかった」などと呟く。

「あの世界に迷い込んできた幼い君は、まるで世界に期待するものなど何もないみたいな顔をしていた」
「俺?」
「何もいいことなんてない。なのに生きなければならない。そんな世界を憎んで、憎みきって、擦り切れてしまいそうに見えた」
光の中の雑踏に紛れる、子供の声を聞いているのだろうか。目を細めて耳を澄ませる彼女は、大切な何かを探すように。
「何となく、放って置けなかったんだ。少しでも、小さくとも、希望たり得る何かがあったなら君は生きて行けるんじゃないかって。だから君に嘘の記憶を持たせた。本当は……私が、そういうものを求めていたから、きっと君も、同じじゃないかって」
「どういうことだ?」
「悲しみは乗り越えられるもので、そのためには希望となる何か……支えたり得る存在が必要だって話だ」

手のひらに低い体温の指先が触れた。繊細なガラス細工のようなそれを、壊さないようそっと握りしめる。彼女の体温が俺に伝わり、俺の体温で冷たい手が温められていく。

「見ててくれと、彼に言った。できなかったことをやって、生きると。だから私は生きるよ。きっと白はどこかで見ていてくれる」

支え合うように繋いだこの手のように、きっとみんな繋がっている。誰かの大切な人は他の誰かにとってもかけがえのないもので、誰かが発した何気ない一言は誰かの生きる糧になったりする。人はひとりでは生きていけない。どんなに強固で揺るがない自分を鍛え上げたとしても。

「じゃあ、ひとまず俺の家に行くか」
「いいのか?」
「何が」
「今の私は、もう宝石を出せないぞ?」
「それは、まあ、何とかする」
一歩踏み出す。俺の靴がコンクリートを叩く音と、ひたりと裸足が地面を踏む音。
「そういえばお前、裸足か」
「うん?それがどうした」
「白の腕を掴んだ時に見た子供のお前も裸足だったな。そういう文化か?」
「あの頃は靴を買う金がないしそもそも戦後で物資が不足していたから……ってのもあるが、まあ私はそこそこ靴が嫌いだ。窮屈でいけない」
「あの時代はそれで大丈夫だっただろうが、今はそうはいかない」
「何が?」
「地面には結構鋭利な小石とかガラス片が落ちてるし、誰かがこぼしたよくわからない薬品がそのままになっている時もある。裸足は危険だ」
「それはまた物騒な世の中になったな」
「しかも今時裸足で街中を彷徨くやつはいないから、結構目立つ」
「変な目で見られるのか?」
「間違いなく」
「それは嫌だな」

立ち止まった彼女に背中を向けてしゃがみ込むと、「いいのか?」とつむじに声がかかって、頷いてしばらくしてからヒタヒタとコンクリートを踏む裸足の音がした。確かな重さと一緒に、背中に柔らかい体温が触れる。細い脚を支えて立ち上がると、白いシャツを着た腕が首にしがみついた。

「これはこれで目立つんじゃないか?」
「走るから、しっかり掴まってろよ」
「え?うわ!」
両足に力をこめて、明るい大通りへと飛び出す。驚いて立ち止まる通行人を横目に、家の方向へ加速した。
「速いな!」
「借金取りに追われて走りまくってたからな」
「それは笑えない話だな」
「いいや、笑えるさ」
「なぜ?」
「今、こうしてお前を背負ってどこまでも走っていける、その体力と脚力をつけてくれたから」
「結果論だな」
俺の言葉を完膚なきまでにバッサリと切り捨てた彼女の声に感じた希望の色を思うと、地面を踏む足に力が入る。
「私たち、側から見たらバカみたいだな」
空に叫ぶように彼女が言う。
「なぜだ?」
「こんな目抜き通りをこんな風に走っていく。まるで浮かれた恋人同士みたいだ」
「いいじゃねえか。これから浮かれた恋人同士ってやつになるかもしれない」
「君と私が?」

瑠璃は笑った。それはもう楽しげに。明け方の世界で凛とした静けさを纏っていた彼女とは正反対の、開けっ広げな声。俺の肩に両手を置いて仰け反った彼女はきっと、青く明るい空を仰いでいる。
それから、声がだんだんと小さくなり、「ううっ」と噛み締めるような涙の音がした。首にしがみつく彼女の頬から、生温かい雫が流れて首筋に触れる。
俺は彼女の涙に気づかないふりをして走り続けた。背後に忍び寄ってくる悲しみが彼女に追いつかないように。この先にある幸福な日々に、少しでも早く辿り着けるように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?