見出し画像

【長編小説】(47)青く沈んだ夜明けの向こう

小さな白い平家の扉を開けると、慎ましやかなリビングダイニングと青白い空間の向こうにキッチンが見えて、テーブルの上から昇る湯気からは美味しそうな匂いがした。
促されるまま椅子に座ると、ついさっき俺が彼女に呟いた食事メニューそのままが、ついさっき用意したように並んでいた。いつ作ったのだろう。誰が作ったのだろう。そんな疑問が脳内を飛び交ったが、向かいに座った彼女が「どうぞ」と言ったので俺は言葉を飲み込み箸を手にした。
温かい米の甘みが、味噌汁の塩気が、焼き鮭の香りと卵焼きの柔らかさが喉を通り、気づくと俺は泣き出していた。何が俺を駆り立てたのかわからない。ここへ来るまでの今日は昨日と同じで、昨日は一昨日と、今月は先月と同じだった。劇的なことなど何もなかった。それなのに止まらない涙を俺は恥ずかしく思ったが、いつの間にか読み始めた本から視線を逸らさない彼女にどこか救われる心地がした。空腹にまかせ、一心不乱に食べ物を流し込む。死んでしまおうと思っていたことなど、すっかり忘れてしまった。
茶碗に残った米の一粒まで平らげ、箸を置いて両手を合わせて「ご馳走様」を言う。誰に教わったかわからない習慣を何も疑わず今日も続けて、少しだけ目を閉じ、開く。
目の前にあった筈の食器が消え、ティッシュの箱がひとつ現れた。

「え?」
「鼻水が出てるぞ。花粉症か?」
「いや、違っ……え?」
「テーブルに垂らす前にかんでくれ」
しれっとした顔で彼女が言う。
「ガキじゃねえんだ。垂らすかよ」
「どうだか。君、小学生くらいだろう?小学生はまだまだ子供だと思うが」
「馬鹿にしやがって」
「馬鹿になどしていない。事実だ」
感情のこもらない、静かな深海のような声だ。本当に俺を馬鹿にしているわけではないのだろう。
「ほら、意地を張るな」

このままでは彼女の言う通りになってしまうので、仕方なしに俺はティッシュに手を伸ばした。鼻をかみ、涙を拭いて、ティッシュを丸める。「ここは花が多いからな」などと依然として俺の涙と鼻水の理由を花粉症に求めているのは天然なのか、それとも気を遣ってのことなのか。
わからない。けれど、「どうしたの」とか「悲しいことでもあったの」とか当たり障りのない心配面を取り繕われるよりずっと良い。これまでの、誰より、ずっと良い。

「……俺は玄。黒川玄だ。お前は?」

彼女を知りたいと思った。もっと話をしたいと思った。不思議な世界に迷い込んで最初こそ不安でいっぱいだったが、この場所は静かで、穏やかで、居心地がいい。

「……瑠璃だ」
少しの逡巡を見せ、彼女は名乗った。
「瑠璃。苗字は?」
「さあ、忘れたなあ」
「なんだそれ。大人なんだからちゃんと名乗れよ」
「そんなことを言われても、忘れてしまったものは教えようがない」
「変な大人だなあ」
「どうしようもないことは誰にもである。私にも、君にも。大人子供は関係ない」
「誰にでも?」
「そうだ。どうしようもないことは、誰の責任でもない。仕方のないことだ。君にだって大なり小なりあるだろう?」
呼んでいた本を閉じ、瑠璃はこちらを見た。大きな濃紺の瞳は全てを受け入れる水底のようで。
「……愛されないことも、どうしようもないことだと思うか?」
腹の底に押し込めていた何かが、呼水に触れたように溢れ出した。
「母さんが、死んだんだ。俺の目の前で、俺に焼き付けるように、あの目は俺を憎んでいた」

母の死、変わってしまった父、荒れていく家の中と遠ざかるクラスメイトたち。身体の内側からちぎり取るようにした感情を、言葉にして床に叩きつける。感情のままに過去を、今を語る俺を、「出会ったばかりの人間相手に何を語ってるんだ」と冷めた目の俺が見ている。言葉が止まらない。
気づくと、俺は自分の何もかもを彼女に洗いざらいぶちまけていた。彼女は黙って聞いていた。否定も肯定もせず、ただ俺の声に耳を傾けた。
吐き出し切った呼吸の先に、少しの静寂が流れた。昂っていた感情が落ち着いてくると、一気に羞恥心が湧き上がる。俺は何を言った?何を語った?赤の他人に赤裸々な身の上話をぶちまけた俺は、側から見れば滑稽だ。笑われるだろうか。扱いに困ったように、同情されるのだろうか。

「……だから君は、山の中を走っていたのか?」

俯き、身を縮こめる俺に彼女は言った。

「どこのどんな山を走っていたかは知らないが、そんな山歩きには不向きな服装で、ハイキングというわけではなかっただろう?」
「……ああ。そうだ」
「得体の知れない古びた神社があるような山の中、そうそう人が来るような場所じゃない。つまり君は、」
ああ、そうだ。俺は死にたかった。息の根が止まり、蘇生できないくらい身体が朽ちるまで、誰も俺の邪魔をしない場所を……
「今の生活が嫌で、どこか他の場所に行きたかったんだな」

やはり彼女は天然なのだろうか。それとも何らかの意図があってのことなのか。思いもよらない彼女の言葉に俺は困惑して、固まっていたら「ひとまず今日は帰りなさい」と手を引かれた。

「ちょっ、なんだよ」
「そういうことは大人になってからやるんだな」
「そういうことってなんだよ」
「君が試みた、自分探しの旅的なあれだ」
「俺はそんな小っ恥ずかしいことしてない!」
扉を開けた彼女に引かれるまま家の外へ。こんな細い腕にさえ抗えない、子供の自分に苛立った。
「子供は自分で考えるより割と色々できないものだ。だから今は我慢しろ」
「違うって言ってんだろ。俺は、」
「ひとまず大人になれ。それでも遅くない」
一方的な彼女の物言いに抗議をしようとしたが、「やっぱりな」と呟いて足を止めた彼女につられ、前方を見る。
「君が通ってきたという鳥居はこれか?」
深い黒を湛えた鳥居が立っていた。
「どうして……ここに来た時は、もうどこにもなかったのに」
「ここはそういう場所だ」
「そういうって、何だよ」
「欲しいと思ったものが現れるってこと」
「そんなこと、あり得ない」
「なぜだ?この鳥居も、さっき君が食べた食事も鼻をかんだティッシュもそうだったんだが」
彼女が挙げた全てが、俺の中の常識を超えたものであったのは確かだ。
「でも……誰が、どうして……」
「さあなあ……この世界を作った誰かの意思か、それともこの世界そのものの意思か……」
「お前、何も知らないんだな」
「まあ、知らなくとも君には何の不便もないだろう」

彼女の手が離れていく。触れていた時は冷たくも温かくもなかったそれは、ひとりになった俺の手のひらに微かな寒さを残した。軽く背を押される。鳥居の向こうへ行けということだろう。

「……戻りたくない」
「どうした。思春期か?」
「あっちに戻ったところで、俺に帰る場所なんでないんだ。待ってる人も、いない」
指先が冷たくて服の裾を掴んでみても、ひとりでは寒さを消すことはできない。
「俺は望まれない子供だったんだ。俺を産んだ母さんさえ、俺を愛してはくれなかった。そんな場所で、ひとりぼっちで生きていけって言うのかよ」
「そうだ。誰が何を与えてくれなくても、生きていかなければならない」
「俺、ここにいたい。ここは欲しいものが手に入る世界なんだろう?いいじゃねえか。あっちの世界は何も与えてくれない」
「……だめだ」
彼女の言葉に応えるように、青白い明け方の空に流星が降り始めた。それはまるで世界の終わりのようで、本能的な恐怖が身体の奥を駆け上がる。
「ここはいつ崩れるかわからない。いつか巻き込まれる」
「そんな……じゃあお前も、そんなのんびりしてる場合じゃないだろ。一緒にここを出よう」
「いや、私は行けない」
「なんでだよ」
「私はここから出られない。そういう風にできている」

口で説明するより見せた方が早いと考えたのだろう。彼女は鳥居へ踏み出した。俺の横を過ぎ、真っ赤な出口に向かって2歩、3歩。4歩目を踏み出したところで、鳥居は幻のようにふっと消えた。
思わず「はえ?」と変な声を出してしまった俺の方を振り返り、彼女は微笑む、一歩後ろへ。また鳥居が現れた。

「まあ、こういうことだ」
「本当に、出られないのか」
「他の願いはいくらでも叶うんだがな、こればっかりは、何故か許されない」
「じゃあお前は、この流星に当たって死ぬのか?」
「いや、これはじきに終わる。ほら、もう」
彼女の視線を追って空を仰ぐと、シャワーのように流れていた星の最後の一つが光って消えた。
「崩れた瓦礫の下敷きになるとか、割れた地面に埋まるとか、そういうんじゃないんだ」
この話はこれで終わりとでも言うように、「ひとつ、教えておこう」と続ける。
「他人に期待などするから、裏切られて苦しい思いをするんだ。自分ではない誰かなど、思うようになるはずがない。期待するだけ無駄だ。人間は自分のことさえ、思い通りにできないのだから

青白く仄かに明るい世界を見渡し、彼女は言う。どこかで聞いたような言葉だと思ったら、世界が揺れて、「これは夢だ」と頭の中に声がした。

「悲しみも憎しみも、何かに期待をするから生み出される。何にも期待するな。他人を自分の大切なものに加えるな。そうしたら喜びは得られなくなるかもしれないが、傷つかずに済む」

こちらを向いた彼女の瞳は、喜怒哀楽がない混ぜになったような色をしていて、こんなことを言うようなことがいつかの彼女にあったのかと思うと悲しくなった。
そんなの、あんまりじゃないか。人は人とあるために生まれてくる。誰かは誰かのためにあり、俺は誰かに支えられ、きっと誰かを支えている。それが人であるはずなのに、その根本を否定するなんて。

「全て忘れてしまえ。君の足を引っ張るだけの記憶なら、何もかもここに置いていってしまえばいい。大丈夫だ。ここは閉塞と停滞の世界。もしまた必要になったら取りに来たら良い」

彼女の手がこちらに伸びてきて、温かくも冷たくもない指先が額にふれた。俺の中から何かが引っ張り出されるような感覚。同時に、俺は”俺から抜け出した”。
小学生の小さな俺と、”今”と変わらぬ姿の瑠璃を見下ろす。そうだ、これは夢だ。置き去りにした記憶の再生だ。俺は白と一緒にあの城にいて、これはきっと、白が開いた真っ白な表紙の本の中に閉じ込められていた風景。

「俺、でっかい大人になるからな。お前なんか指一本で持ち上げられるくらい、でっかくなる」
「ほお、それは楽しみだ」
「それで、お前を迎えにくる。この鳥居が俺を通すなら、お前を抱えた俺もきっと通すはずだ」
「それはどういう理論なんだ?」
「絶対だ。理論なんて関係ねえ。俺はお前を抱えてこの鳥居を抜ける。外に、連れ出す。そうしたら一緒に暮らすんだ。父さんも、学校の先生も、クラスメイトも誰もいない、ここみたいに静かで落ち着く場所で、2人で」
「なんだ、プロポーズか?かわいいな」
「俺は本気だからな!」

そうだ。俺は彼女が”大好き”だった。
出会ったばかりの彼女が、俺のことを何も知らない彼女が、これまで長居時間を共にしてきた他の誰より優しかったから。「何があったの」とか「わけを話しなさい」とか、自分の優しさを取り繕うために俺の傷に触れたりしない。傍にいて、流れた血だけをそっと拭き取るような彼女に惹かれていた。
一緒にいたいと思ったし。一緒にいたいから、他人を諦めないで欲しかった。期待して欲しかった。他でもない、俺に。

「……何か、馴染ませるようなものが必要だな」

独り言を呟いた彼女は周囲を見渡し、目当てのものがないと覚ったら手のひらを空に向けて目を閉じた。少しするとその手に真っ青なガラス玉がついた女物のネックレスが現れて、目を開けた彼女はそれを子供の俺に握らせた。

「いいか?これは君の母親の形見だ。明るくて、優しくて、君を愛した母親の」
「は?なんだよ、そ」彼女は子供の俺の言葉を遮り、
「君は幸せだった。理想の典型のような当たり障りのない家庭で、普通の幸せを享受していた」
続いた言葉に、俺は呆けたように動きを止める。
「どんなに辛いことがあっても、幸せだった記憶があれば生きていける。無力な子供の時分を終えれば、そんなものを糧にせずとも生きていける日がきっと来る。そうしたら忘れてしまえ。それまでは、覚えておくんだ」

「さあ、行くんだ」と促された子供は、何も言わずに踵を返す。真っ直ぐに鳥居を向く幼い瞳はまるで洗脳されたようで、そこには何の感情もない。

「真っ直ぐ家に帰って、寝て、目覚めた君は全てを忘れている。最初のうちは記憶の齟齬を感じるかもしれないが、決して疑問に思ってはならない」

歩き出した小さな背中に向けて、彼女は言う。

「何もかも、夢だよ」

子供が鳥居の向こうに去り、鳥居そのものが朝に溶けるように消えても、彼女はしばらくそこに立っていた。この時の幼い俺は、振り返らなかったから知らないだろう。
彼女がこの時、どんな顔をしていたかなんて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?