【長編小説】(58)青く沈んだ夜明けの向こう
迎えなんていらないと何度伝えたかわからない。それでも自分の就業時間に合わせて閉まった図書館の正面玄関に現れる黒川玄に、青海瑠璃はもう何も言わないことにした。
自分の荷物くらい自分で持てると言っているのに、彼は彼女の肩からリュックを掠め取っていく。以前は生成りのトートバッグを使っていたが彼が最も容易く取り上げるのでリュックに変えたというのに、結局彼はそれさえ自分の肩にかけてしまう。もしも彼がこの国が凄惨な敗戦を迎えた”あの時代”に生きていたなら、ひったくりで生計を立てられたかもしれない腕前だ。
右の肩にリュックと買い物帰りのエコバッグをかける。身体の片側ばかりに負荷をかけては骨格が歪んでしまうというのに、彼は瑠璃の手を握るために必ず左手を空けるのだ。手を繋いで歩くなんて子供っぽいし、同じ家に帰るというのに手を引かれる必要もないと彼女は思っていたが、これも頑として譲らない彼に根負けした形だ。
毎日、仕事終わりは迎えにきた彼に荷物を預け、手を繋いで家路を歩く。
「引越しの荷解きは終わったのか?」
長く伸びた2人分の影の先に視線を向け、瑠璃は呟いた。
「ああ。とっくだ。昼過ぎには終わったから、暇してたんだ」
「悪いな、任せてしまって」
「いいや、ほとんど俺の荷物だし……というか本当にお前の物ほとんどなかったぞ。持ち物少なすぎだろう」
「そんなことを言われても……必要なものを集めてあれなんだ」
困ったように応える彼女に、玄は苦笑する。そういえば、彼女が暮らしていたあの明け方の世界の家も、物が少なく生活感がなかったななんて思い出しながら。
「必要ないものも買えばいいだろ」
「……必要ないものを、買う?」
いまいちピンとこないという顔をする彼女に、玄は思う。
必要なものさえ手に入らない、今日食べるものさえ無かった時代を生きていた小さな彼女は、まだここにいるのだろう。大人の姿の彼女の中で、忘れないでと叫んでいる。
忘れないさ。何一つ、無かったことになんてできない。あの日彼女が揺らぐ視界で急いだ帰り道も、崩れ去った仄かな青白い世界も、そこに置き去りにした大切な人も。
その過去の、記憶の、過ぎ去ったものたちの先に、自分達は立っている。
「何となく店を巡ってさ、目についた好きだと思ったものを買うんだ」
キョトッとした彼女の、濃紺の瞳が傍を映す。
「目についたもの?必要ないのに?」
「それがいいんだ。必要ないけど、心を豊かにするもの。いつか大切にできそうなもの。そういうのがきっと人生を色とりどりにしていくんだと思う」
「へえ……そういうものか」
「そういうものだ。今度一緒にどっか行こう」
「その前に君の店の準備が先だろう」
「え?ああ……それはまあ、それも必要だが」
「開店日は決めてるんだ。計画的に進めないと間に合わなくなるぞ」
「……いざとなったら延期すればいい」
「それはダメだ。もう朽葉に日にちを伝えてしまった」
思いもしない彼女の言葉に、玄は真っ黒な瞳をまん丸にする。
「朽葉?何で……どこで?」
「私の職場で」
「何でお前の職場に朽葉がいるんだ」
「言わなかったか?たまにはひと所に落ち着いてみたいとか言って、2ヶ月くらい前に職員として入ってきたんだ」
「聞いてないぞ」
「そうか。それは悪かった。ちなみに、今日で出勤するのは最後だと言っていた」
「何でだよ」
「『見たいものは見たから』とか言っていた。私にもよくわからない」
「あいつは、ほんと……」
彼らがあのボロアパートを後にして引っ越した先は、静かな住宅地の片隅にある小さな一軒家。1階が打ち抜きで店舗として利用できる、築15年の元喫茶店。洋風レトロなインテリアを、木目の暖かい小料理屋に改装している最中だ。
調理系の専門学校を卒業した玄は、在学中からバイトをしていた料理店で今も働いている。自宅の1階に構える店が出来上がったら、晴れて独立予定だ。
彼らの人生は始まったばかりだ。行きたいところでやりたいをことをして、思い描く未来に向かって進んでいる。光を見つけた夜光虫のように、朝焼けに向かって飛び去る渡鳥のように。
それでもふと、立ち止まり、振り返る。彼らには同じ過去がある。違う時代、違う場所、違う人生の中で形成された、同じ形の傷跡だ。
「ねえ、玄」
西の空に沈む太陽の赤い光に、瑠璃は静かに目を細める。彼女の丸い額を太陽の断末魔が照らしている。
「店の方が落ち着いて時間ができて、一緒にどこか行く機会ができたら、行きたい場所が……」
言うべきか迷って、言うべきではないかもしれないと思って、それでも言いたくて。彼女の声はそんな色をはらんでいた。赤い夕焼けに溶けてしまった彼女の言葉を続きを、玄は拾い上げ、繋ぎ合わせる。
「探しに行こう。大丈夫だ。あの鳥居は俺を右往左往探し回らせた日だって、結局最後は現れたから、きっといつか見つかる」
「……そう、かな」
「ああ。そうだ。そう、信じようぜ。未来は決まっていないし、神は意外と気まぐれだ」
「何だ君、神ってやつに会ったことがあるのか?」
「さあ、よくわからないが」
「何だそれ」と瑠璃が笑う。つられたように玄も笑う。
「鳥居を見つけて、向こうの世界で白に会ったら何ていう?」
「ひとまず一発殴る」
夕日に向けて細い拳を伸ばして見せる瑠璃に、玄は漫才のツッコミ役のように、
「何でだよ!」
「姉の言うことは聞けって。あと、生きてるならちゃんと連絡しなさいって」
人はどうしようもなく現実を生きていて、だから”もしも”なんて考えたところで無意味で。現実はいつでも彼らを裏切ってきたし、これからも裏切り続けるかもしれない。
彼らはそれを知っている。知っていて、笑っている。それでもいつか”もしも”が叶ったらと、夢を追いかけ走っている。
もう大丈夫だ。
そう確信した”僕”は、水を溜めたシンクの栓を抜いた。
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