
郷里のこと、くさぐさ
長野県長野市の南側に聖山(聖岳とは違う)という休火山がある。
山頂が爆発で吹き飛んでしまって、山は幅の広い台形である。山頂には埋まってしまった大きな火口湖跡があって落葉松が密生していた。
落葉松の根元には大きな蟻が木の皮や枯葉を粒状にして、うず高く積み上げていた。
グズグズしていると蟻が足に上がって来そうで大急ぎで歩いた覚えがある。火口湖の淵に沿って3分の1周歩けば東から西に麻績(おみ)、坂北、日向、大岡、と4つの村が見えた。
紙をくしゃくしゃに握りつぶして広げ、両側から少し押せば、小さな皴、大きな皴が押し合い複雑な形状が出来るだろう。
聖山から俯瞰した筑北と言われる地域の形状はそんな感じだった。
聖山麓の南西の斜面が麻績川(おみがわ)に落ち込む所が私の生家のある集落だった。
その先にも低い山が重なり、更にそのその先にはひときわ高く北アルプス連峰が広がっていた。
そんな山の中の集落に私の父親が松本市立博物館の館長、一志先生という方をお連れしてきた。50戸ばかりの家々に手分けして声をかけ、集会所に人を集めた。集まった人は30人以上いたような気がする。私がまだ小学4年生のころのことであった。
一志先生と父親との関係は分からない。一志先生とは本来教育者であり、文化財専門委員、同委員長であった。また信濃史学会の月刊機関誌『信濃』を独力で半世紀も編集発行したという人である。
私の父親などがどうしてお付き合いできたのか、不思議である。
一志先生のお話は、私らの真向かいの山、通称「向けえ山」に城があったという話だった。山の名も鍋山、峰がぐるりと曲がっていて鍋の縁のように見えるというのであった。その鍋の縁は一番高いところで崩れて麻績川に落ち込み、垂直の崖になっている。
私の家から見える鍋山の西の端が3段になっていた。今は木が茂って見えないが、確かに3段になっていた。それが城のあった所だど仰るが狭い。ぎっしり詰めても30人くらいしかいられない。槍を使うとしたらせいぜい10人ずつ3段で30人である。
一番高い所が崩れているから、昔はもっと広かったには違いないが、それにしてもせまい。
川中島合戦の時に築城したというから、戦の城ではなく狼煙場を守るための見張り場だとしたら納得できる規模である。
この城跡辺に松の木が幾本かあって、私は父から松茸の出る場所を聞いた。「松茸の代(しろ)」である。松茸の代は、親子でも教えないと言われていて、一子相伝であった。
城跡の松茸の代(しろ)相伝す 湧
その家を私が継ぐことはなかった。
松本縣が丘高校3年生のころ、放課後に松本城近くの図書館に行くことが多かった。或るとき、図書館の職員に声を掛けられた。
「図書館友の会」を作るので発起人会に参加してくれと言う事だった。
館長は小笠原さんという方で「座談の名人」という感じだった。
発起人会は1回か2回だった。続いて読書会をした。決まった本を読んできて当日順番にその本を読んで、読み終わったところで感想を言い、話し合うのだった。その時私は「洲」という字を間違えて「しゅう」とよんでしまった。指摘されて赤面した。偉そうに列席していても日頃の不勉強はすぐばれる。
その時のこと、私が読書会は坂北村(私の生家の村)でもやっていますと発言すると、館長の小笠原さんが大変興味を示されて「ぜひ出席させてほしい」とおっしゃる。
私は坂北の読書会「群山会(むらやまかい」リーダーの了解を取って館長に改めて、お出で下さいと申しあげた。(郡山市は関係ない)
「群山会」日曜日の朝からだったので父にその話をして、
「土曜日の夜、家に泊まってもらいたいのだが、どうですか」と言うと、非常に驚いて「殿様がお出でになるのか」という。
私にとっては図書館の小笠原さんだが、そんなことを言ったら張り倒されそうな塩梅だった。
小笠原さんについてしらべた。
小笠原忠統1919~1996年 小笠原家第32代当主。伯爵。長野県松本市立図書館長、相模女子大学教授を務めた。
数多くの著書がある。
「作法とは形ではなく、本来は相手を思いやるこころである」という真の小笠原礼法を世に広めることとし、著書、テレビ出演のほか、門弟を多く抱え、後生の育成に努めた。
分教場に一室だけ畳の教室があって読書会の会場に使わせていただいていた。そこにおいでいただいたときに「小笠原流を見せてやる」と言って廊下から戸を足で開け座布団の上にどっかりと胡坐をかいて見せるという、茶目っ気もお持ちの方だった。
68年か69年くらい昔の思い出です。
2020年12月23日