冬来たりなば
冬来たりなば
鳴沢 湧
信州生まれの私には、関東の秋は長い。
信州で育った子供のころは、盂蘭盆を過ぎれば川での水泳は禁止されたものだった。
秋には台風が来て水害が多かった。敗戦前後、爆撃で焼かれた都市部の家屋復興のために、山の木が伐り尽くされたので、ちょっと多めの雨が降れば洪水になった。
取り入れに忙しい秋、早霜が降りることがあった。小、中学には農繁期休みがあって、いつも稲刈りに駆り出された。ある年などは稲刈りの最中に雪が降りだし、一日一夜降り続いた。
雪が降りだした日には、蓑笠を着て稲刈りを急いだ。二日目には、雪が解けかけて凍り付いた穂が地に着きそうに倒れかけていた。
雪の中で合羽も無くて、蓑笠つけて背中を丸めての稲刈りだった。蓑は背を丸めていれば全然防水にならない。二日目の稲刈りは、氷の着いた穂を傷めないように刈り取らなければならなかった。
雪が降るからと言って延期するわけにはいかない。霜や雪に急かされれば猶更忙しいのだ。雪の中の稲刈りには、大人でも涙を流した。
屈強な男は戦争に駆り出され、女子供と年寄りが頑張っていた。それでも作り切れなくなったと、小作の田を返されて、私の家族は「食糧増産」という国の号令の下、広すぎる田圃を空けては置けなかった。無理をして子供まで巻き込んで、耕地面積を増やさなければならなかった。
雪が過ぎて空が晴れても、凍りついた稲穂には羽が濡れて飛べなくなった蜻蛉が止まっていた。その蜻蛉も昼間には、雲と見違うほどの大群で空を覆っていた。
とんぼうが刈田の空の雲になる 湧
あの雪は「秋の終わらないうちに、冬が割り込んできた」という感じだった。
稲刈りが済み、脱穀が済めばお菜洗いだった。野沢菜を風呂桶の二倍くらいの桶に漬けるのである。
冷たい麻績(おみ)川の河原で幾家族かが菜を洗っていた。河原の石の上で水を切った菜を、背負子で背負って運ぶのが私の仕事で、水を切ったはずの菜はまだ濡れている。背中は下着のシャツまでずぶ濡れになった。
私の生家では、味噌醤油の醸造を副業にしていたので、私が五年生か六年生の頃からは味噌豆を煮る大釜で湯を沸かしてお菜を洗うようになって私は手伝を免れた。
野沢菜を漬けるころが冬の初めだった。冬本番の仕事は、柴取りと炭焼きである。
炭や薪(まき)にならない藪や、枯れ枝、曲がって横に伸びすぎた枝などを伐って束ねた。これを「ぼや」という。普通「小火(ぼや)」というのは大事に至らない火事のことである。柴をぼやというのは方言らしい。雪が積もる前にできるだけ多くのぼやを採って蓄えなければならない。山林地主でも自家用燃料はぼやだった。
雑木林には、伐りたい木と残しておきたい木がある。残しておきたい木は建築用材になる木、薪(まき)、炭になる木であり、薪とは、商品として出荷できる「割り木」のことを言う。
ぼやは大人の一抱えくらいに束ねて、大人は二束か三束。子供は一束ずつを背負子に結わえ、家まで運び出す。
土蔵の周りに杭を打ち、ぼやの束を立てて縛り付ける。そのころの大家族の煮炊きや暖房のために、膨大な量を蓄えるのであった。
夜は、勉強するからと言って奥の座敷に炬燵を作り、炬燵に抱きつくようにして本を広げても、築百数十年の家は立て付けが悪い。十二時を過ぎて、Gペンで書いた字が太くなったので見るとペン先に氷がついていた。
炬燵には囲炉裏で焚いたぼやの「燠(おき)」を入れるのだが、夜半過ぎると燃え尽きてしまう。
信州の冬でも、いつも里山に雪があるわけではない。山の様子を見計らって、雪のない場所に、直径一メートル以下、深さ一メートル三〇センチくらいの穴を掘る。ぼやよりも少し太目な木を伐って、掘った穴の周りに集め、焚き火を焚く。 太めの木がよく燃え、燠が溜まったころを見計らって穴の中に落とし、その上からどんどん伐った木を落として燃やす。穴の縁まで燃えさしが溜まれば、燃えさしの上に土を被せて踏みつけ、さらに土を盛り上げて作業はひとまず終わりである。
一週間くらい経って掘り出すと、燃えさしも炭になっている。この炭を「あく炭」という。 この「あく炭」という物は、大変な難物で、持って帰ってから一晩経ってみたら、灰になっていた、というような事がよくある。
「山の穴」の中で火が消え切らず残っていたのである。良くあることなので、畑の隅に置いて、様子を見てからでなければ家や物置には取り込めない。
安全を考えれば二週間くらいは放っておいた方がいいのだが、いつ大雪が降るか分からない。雪が積もれば掘り出しに行けないので、大抵一週間くらいで掘り出してくる。
卯木(うつぎ)という灌木がある。卯木は「空木」が語源と言われ、幹が竹のように中空で、枝の出ているあたりが塞がっている。耕地整理の前までは、農地の境に目印として植えられていた灌木である。
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良
奥の細道に出てくるこの卯木は堅い木で木釘にも使われたという。これが炭の中に入ると、外側が消えても内側に火種が残っていて、空気に触れればまた燃え出すのである。 あく炭をたっぷり入れて、その上に燠を置き、堀炬燵の炉の縁から敷き布団を敷き、炬燵布団に重ねて掛け布団をかける。
温かい寝心地は激しい労働の対価である。
二〇一八年二月記
題「冬」
今年も、冬がそこまで来ています。朝夕の寒さが身に染みるころになりました。
冬来たりなば(その2)
鳴沢 湧
まだ秋だというのに寒くてたまらず、石油ストーブを焚いている。いつからこんなに寒がりになったのだろう。
秋日和に誘われて外出してみても座れるところが少ない。公園のベンチも数が少なく、一人で占領しているのは気が咎める。先ほど見てきた空には蜻蛉も見えなかった。
思い出すのは子供のころ見た信州の秋だ。空を見ると蜻蛉が雲のように大きな群れを作ってホバリングしていた。蜻蛉と蜻蛉の間から青空が見える。もっと密集すれば雨雲のようになりそうだ。
あれほどの大群の、一匹ずつは激しく羽を動かしているのに音を立てない。ホバリングと思っているといつの間にか動いている。
雲と違うのは陽の光を遮らないことだ。青い空に無数の蜻蛉が浮かんでいて、静かに風に流されて行く、そんな風景を夢の中の出来事のように思い出す。
二十年くらい前かと思う。郷里の長野県からの帰りに、長野県佐久市から富岡へ出る途中で、神津牧場へ寄ったときに同じような蜻蛉の群れを見た。
群れになるのは繁殖の為だろう。間も無く池や沼に卵を産み付け、卵は孵ってヤゴになり成長して来年は蜻蛉になるのだろう。親の蜻蛉は短い秋に全てを終わらせ、冬を見ずに死んでゆくのだ。
信州の秋は短かった。取り入れの秋に突然雪が降ったりして毎年忙しい思いをしたものだった。冬支度を始めるころはもう冬に入っている。冬に入ってから冬ごもりの支度をしたのだ。
大根、蕪、芋などを囲ったり、薪を用意したものだが、今はどうなっているのだろうか。芋などの寒さに弱いものを除いて野菜は畑に置いたままで、必要なときに採ってくればいいのかもしれない。温暖化のため、昔は出来なかったものが出来るとか、思い出の郷里とは違っているようだ。
山際の畑は一時期、柵を作って電流を流して鹿の食害を防いでいると聞いたが、何年も経たないうちに耕作を放棄したらしい。
私より二歳年少の妹は認知症が進んでいる。半年ほど前にズームで見た時には話は出来なかったが、私の頭を指さして「真っ白」と笑った。先日電話したときは泣き声が聞こえただけだった。
特別辛いとか悲しいのではなく、感情の抑制が出来ないらしい。ちょっとした感動にも泣いてしまって、と甥の連れ合いが言う。
夫を35歳の時に交通事故で亡くして、男の子三人を育てた妹である。最後まで幸せでいてほしい。妻が言うには、子も孫も優しすぎて安心し過ぎたのでしょう。少しは心配させるのも親孝行かもしれないという。
比較的広い、条件のいい農地を持っていたのだが、どうしているかは聞いてみたことも無い。
田舎のことよりも今の生活である。
雨の降らない日はなるべく歩くようにしている。歩きすぎると足腰が痛むし、体全体が疲れてしまう。精一杯で三千歩である。ついそれ以上歩いて幾日も辛い思いをする。
昨日朝から足元がおぼつかなかったので、血圧を測って見ると低い。明らかな低血圧である。
冬至まで四十日余りもあるというのにストーブを焚き、夜は電気毛布を使っている。十六年前に義母を連れて来て介護したのは十月からだった。「風邪をひかせないようにしなさい」と、それまで世話になっていた老健の先生にくどいほどに注意された。
今は我が事である。風邪をひけば肺炎になりやすい。肺炎になれば老人は弱い。
気を付けなければ、と思う。冬に向かうという事が、これほど重い意味を持って身に迫るとは、義母の「年寄りのことは自分が歳をとってみなければ分からない」といった言葉が今、身に染みる。
昨日、一人息子が一人孫(女の子)を連れて来てくれた。
インターネットの光回線を新しくすれば、
「今までの一ギガから二ギガになるので、ネットが使い易くなる。それに料金も一月に千五百円も安くなる」と言われて申し込んだが、何回も騙されていたので、契約の書類を送らせた。
息子にチェックしてもらうと、
「不要なオプションがたくさんついて、却って高くなる。ネットで変更しようとしてもできないようになっている。断りましょう」と言う。その場で電話すると、意外にあっさりと解約に応じた。
「そういう苦情がたくさん来ているのでしょう」と息子が言う。自分では、細かい作業になりそうだと思うと中も見ないで放り出してしまう。「しょうがないな」と思う。
今年はまだ秋だというのに寒さが、一入身に染みる。
コロナがこのまま治まれば毎月来ると息子が言う。勤め先がテレワークを認めてくれるかもしれないともいう。
つい当てにしたくもなる。夫婦とも痛いところもあるし辛いこともあるが、特別病気ではないから、助け合って子の負担を少しでも先に伸ばそうと思う。
いよいよ冬が来るのだ。冬が……。
2021年11月題「冬」
エッセィの講座で今年も「冬」という題が出ました。それで、『冬来たりなば(その2)』と言う事になりました。
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