石仏の山
石仏の山
鳴沢 湧
ふと、思い立って長野県の郷里に近い「修那羅(しゆなら)の石仏群」を訪ねた。
私の住んでいる栃木県小山市を朝早くに出発して、碓氷峠を越えて小諸を過ぎ、さらに下って上田に向かう。
国道18号線が渋滞気味になってきたので上田の手前から左折して「笄の渡し」という標識のある橋を渡り千曲川沿いに下って、別所温泉の近くをかすめ、上田から青木への道へ出る。
青木峠への途中から右へ入るとまもなく修那羅峠である。およそ五時間のドライブであった。峠の頂上に車を止め、参道の急な坂道をたどる。体が汗ばんでくるころ、ようやく「安宮神社」に到着した。
入り口の一群の石仏は「都忘れ」の花に囲まれてひっそりと静まり返っていた。その中に一体だけは天を仰いで大きな口を開けて笑っていた。永年の風雪に洗われて損傷がはっきりとみてとれるのに、その表情の豊かさは驚くばかりである。
山の中に建っている神社の本殿にお参りして、その脇のくぐりを抜けると、そこは別世界である。「安宮神社縁起」によれば、鎮座まします石神象、石仏、木像が一千百二十八体という。
起伏の多い雑木林の中に人一人通れるだけの踏み分け径があって、径の傍らに無造作に並ぶ石仏、石神像には何の秩序もなく、地蔵の次に弁天、鬼神の両脇に猫の像という具合である。 小さいものは三十センチくらいから五十センチくらいのものが多い。特別大きなものは一メートルもあろうか。
その日は雲が低く、今にも一雨来そうで、茂りに茂った雑木林の中は薄暗く、ストロボなしでは写真も撮れないほどであった。
それにひきかえ、前回来たときは十一月末の、よく晴れた日であった。あのとき見た石仏は底抜けに明るい表情で、「お茶でも飲んでいかしやれ」と、話しかけてくれる農夫のようであったが今日の石仏たちは、暖かい表情を浮かべながらもみな無口だ。「人の業」を黙って引き受けてくれるに違いない温かさと、頼むに足る力強さをもって、ひっそりと静まりかえっている。
その、一体一体にまつわる古人の苦しみ、喜び、それが何であれ、時の流れの中で風化し浄化され、残された石仏、石神像が語るのは、人の世のはかなさか、あるいは名もない人々の健気さかもしれない。
激しい雷鳴に驚き、未練を残しながら別れを告げる。境内を出ると、すぐ近くで鶯が谷間に声を響かせている。
前に来たときには、雷鳴と鶯のかわりに別の音があった。瀬音に似てもっと乾いた音だった。「あれっ」昔聞いた覚えのあるこの音を思い出そうとしているときに「お父さん、こんな山の中に川があるの」と息子が私に間いかけた。あのときは妻と子と弟と私の四人で、祖父の法事の帰りに初めて寄ったのであった。
息子の声に我に返った途端に思い出した情景は、母と二人で山へ行った幼かった日のことであった。母が柴を刈っている間ひとりで遊んでいたのだが、微かに聞こえてきたその音に惹かれ、葉を落とした雑木林の奥へと分け入ったのであった。
少しずつ、やがてにわかに強くなったその音に不安を感じた私は急いで母の姿を捜したのであった。激しい作業で顔じゆうに汗を浮かべた母は私を見て山の斜面に視線を移しながら「風の音だよ」と言った。
裸になった雑木林の、梢を渡る風が、無数の梢の細い枝先を触れあわせて、瀬に似た音をたてていたのであった。
風の音は圧倒的な量感を秘めながらも、母と子の会話を妨げるほどの高さはなかったが、幼かった私の心を揺さぶり、不安をかき立てて止まなかった。
息子に「風の音だよ」と説明しながら谷の向こうを見ると、数十メートル先から向こうの山の頂まで、梢の揺れているのが見えた。話しているうちにも自分たちのまわりで微かな音が起こりはじめ、やがて山全体が風の音に包まれていくのであった。
それにひきかえ今日は雷鳴と鶯の声である。雨が隆り始めたので大急ぎで車のところまでかけ下る。すっかり濡れてしまった。ここには足を引き留めるものが多すぎる。
前に来たのは十一月だった。今回は六月である。この次は春早くに来てみよう。
ほとんど人に会うことのないこの山の中で、神仏の前に立ってみよう。
1988年6月
追記
今年になって、小山市のイトーヨウカ堂の古本コーナーで、私にとって貴重な本を三冊も手に入れた。誠に幸運だった。
『金子みすゞと清水澄子の詩』志村有弘著 勉誠出版
『復刻版 清水澄子』清水澄子著 信濃毎日新聞社
『写真集 修那羅の神々たち』金井竹徳著 出版社名は書かれていない。印刷所 株式会社ぎょうせいとだけ書かれている。これはその中でも最も貴重な一冊である。
これは 『写真集 修那羅の神々たち』の表紙の写真である。
昭和61年6月30日 発行 著者 金井竹徳
著者 金井氏の写真集 石の心シリーズ『上州の石仏』『北条の石仏』
『喜多院五百羅漢』『沼田路の道祖神』
共著 『信州の石仏』『日本の石仏』関東編 写真集『藤原郷』
『上州道祖神百選』 等々
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