有島武郎:生れ出づる悩み(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録1)
シリーズ全体の序に代えて
このシリーズ(「昔読んだ小説類の記録」)の直接の目的は、私自身がおよそ50年前前後―昭和45年(西暦だと1970年)頃から大体10年間の間に読んだ「小説類」を記録し、読者に紹介することである。記録自体が最終目的なのではないが、最終目的はまだうまく表現出来ないので、ここでは書かないことにする。
マガジン「膨張する本の記録」の説明文では、この記録が漸進的に膨張して行くことを指して「膨張」という言葉を使ったと述べたが、「膨張する」は「記録」だけではなく、同時に「本」にも掛かっている。単純な解釈では、「膨張する本そのものの記録」という意味になるが、まだそこまでは言えないとすれば、これは「膨張する本のための記録」程度の解釈が今のところ妥当かも知れない。
何やら深い思惑があって膨張という言葉を使っている、という風に上では書いてしまっている。しかし実際は、多くの「本」の大部分の内容を私はもう忘れてしまっており、内容の詳細を書くことは不可能である。そこで、まずは幽かな記憶を頼りに最低限の記述をし、その後それを膨らませる形で、記録を段階的に書き継いで行くことを計画している。膨張のそもそもの理由は、このような実際上の要請である。
以下、註釈を幾つか示す。
まず、「膨張する本の記録」では、「本」という言葉を使っているが、必ずしも狭い意味での本だけが含まれる訳ではない。例えば、雑誌上で読んだ小説類も含まれているかも知れない。
「昔読んだ小説類の記録」において「小説類」としたのは、狭い意味での小説だけではなく、あくまで私の意識の中でそれに類するジャンル―例えば詩や演劇(脚本)も含まれているからである。その当時小説を読むのと同じような意識で読んだ、哲学書や思想書の類も「小説類」の中には含まれている。
また、ここに記録・紹介する、以上のような意味における「本」そして「小説」は、この時期に読んだ「本」や「小説類」のすべてを網羅している訳ではない。記憶していないものも多く存在するに違いない。また、新聞や雑誌の記事、その中の文学的な評論、ちょっとしたパンフレットや小冊子、レコードの解説等々、その当時読んだものをもしすべて網羅することが出来るなら、もっと膨大な量に上るだろう。ここで記録・紹介するのは、かなり意識的な読書を通じて読んだものだけである。
さらに、記録・紹介する小説類の題名の表記であるが、多くの場合現代表記に改めている。しかし今後方針を変更する可能性もある。
また、記載内容が間違っている場合もある。このシリーズは、学術的・研究的な意味での記録・紹介ではなく、あくまで私自身の個人的な意味での記録であり、それをベースとする紹介である。文章のジャンルとしては、「随筆」である。従って、ここに記載された小説類に関する情報を学術的な意味合いにおいて引用することは、絶対に避けてください。読者が書誌情報類を記述する際は、ご自分で然るべき学術的文章に当たって下さい。
なお、これから紹介する小説類は、最初に、以下の本(2020年出版)の第4章で示したものである。
上記の本は、今法政大学の教授をしている金井明人博士との共著であるが、私の執筆部分が多くの割合を占めている。しかし執筆作業に当たっては、金井氏とたびたび激論を交わしたことを覚えている。一般読者に供するにはあまりに「マニアックな」性格のものとなっており、出版社の担当の方からもしばしばお叱りの言葉をいただいた。それにも拘らず、分厚い、売れないことが最初から分かり切っている本を出版してくれた学文社には感謝している。いろいろな意味で、少なくとも個人的には思い出深い本である。
その後この「小説類」の記録を、以下の英語の共編著(2020年出版)の第6章(Chapter 6: Bridging the Gap Between Narrative Generation Systems and Narrative Contents With Kabuki-Oriented Narratology and Watakushi Monogatari by Takashi Ogata)に、表にして再掲した。
その際、それぞれを英語化するのに加え、発行年(もしくは年代)、物語の中の主要な時空間の情報を加えた。その意味で、この段階から「膨張する本の記録」になっていたことになる。
なお、この本は、以下の出版社のサイトから、Preface(まえがき)やTable of Contents(目次)等の情報、各章の最初のページ無料で閲覧出来るようになっている。また、各章ごとに購入し、ダウンロードすることも可能である。
有島武郎の「生れ出づる悩み」
作者:有島武郎 [Arishima Takeo]
題名:生れ出づる悩み [Umareizuru Nayami: The Agony of Coming into the World]
発行年:大正7(1918)年
物語の時代:明治時代 (The Meiji era)か大正時代 (The Taisho era)と思われる。
物語の主要舞台:北海道 (Hokkaido)、岩内 (Iwanai)、札幌 (Sapporo)
昭和45(1970)年11月25日時点で意識のあった人の多くは、その日市ヶ谷の自衛隊に「乱入」し、自衛隊員らに決起を促す演説をぶち、その後日本刀で割腹し、「同志」に日本刀で首を斬り落とされて死んだ、三島由紀夫の事件を記憶しているに違いない。
私はその時点で小学校六年生であった。その思想的・哲学的意味や、政治的意味等を考察するだけの知的能力はまだなかった。その二年前に川端康成がノーベル文学賞を受賞した頃から、妙に気分が文学づいてきていたが、この三島事件が決定的に私を「文学」の方にプッシュした。そのような意味での影響が大きかった。
しかしながら、今改めて考えてみると、三島由紀夫のこの行為は、1960年代という「政治の季節」の最後を飾るものの一つであった。三島の早い晩年の政治的なエッセイ類を読むと、三島の中で、反米感情と反共産主義感情とが共存して、三島を政治的行動に駆り立てていたことが分かる。三島の死後、連合赤軍等の共産主義的政治運動は先鋭化、テロ化して行った。
これらの詳細を記すのは別稿に譲るが、この1970年前後においてまだ子供だった私にも、何やらきな臭い政治の臭気は強く届いていたのは確かである。「文学」が政治や社会の問題と交じり合うものとして意識されていたかもしれない、と考えてみることも出来る。
実際、5,6年程「文学」に熱中した後、私は表向きはその世界から撤退し、社会科学を勉強するようになり、さらに人工知能の世界にシフトして行った。今までこれらは偶然だと思っていたが、何やらそのような方向へ自分をプッシュする核となるようなものが、当時の自分の中に存在していたと考えて見ることが出来るのではないかと、今思っている。その上で、私が「文学」にプッシュされた1970年前後の社会状況あるいは社会的雰囲気が、何らかの影響を与えていた可能性もある、と今考えてみている。
さて、前置きが長くなり過ぎたが、有島武郎という作家の名前はその前から知っていたと思うが、「生れ出づる悩み」という、当時本の表紙を人に見られるのがちょっと恥ずかしかったその題名を、何かの記事で見たように思う。そこに書かれていた内容に惹かれて、私は自宅から歩いて10分少しの、商店街の一番端にある本屋に買いに行った。
因みに、地方都市の多くの商店街は今から30年前頃からどんどん寂れ始め、壊滅状態に陥っているが、この商店街は今も昔のように賑やかである。しかし店の変遷はある。特に本屋は激減し、音楽のレコード屋(その後CD屋)は消滅した。「生れ出づる悩み」を買った1970年か71年から1980年代から90年代初めにかけて、家から歩いて12,3分圏内に、ざっと思い出しただけでも8軒位の書店があった(古本屋が二軒)。歩いて20分位の、隣のもっと大きな駅まで足を延ばすと、その近くには比較的大きな本屋が二軒と、小さな本屋が数軒、古本屋も数軒あった。電車で7,8分の繁華街まで出ると、地域の代表的な本屋や新刊書店、古書店が幾つもあり、さらにもう一つの繁華街にも複数の大小の書店があった。
今、最初の徒歩12,3分圏内の本屋の大部分は消滅し、残っている僅かな本屋も品揃えは比較にならない程度にまで劣化した。最早利用することは出来ない。ネットの発達と大型書店による寡占化によって、個人経営の書店が町々から消えた結果が、現在である。
これに対して、私が本を買い始めた1960年代から、1990年代初め頃までは、個人経営の書店であっても、その品揃えは凄かった。本屋の品揃えが凄かった、とだけ言うと誤解が生まれる。本自体も、まだ「古典的な時代」であった。
「生れ出づる悩み」を買った商店街の本屋には、新刊書の他、各種の文庫本が揃っていたが、その殆どすべては各国の「古典」であり、また現代の「純文学」(広い意味での)であった。駅の近くのもう一軒の小さな本屋には、文庫本以外にも、日本と海外の文学全集が並び、店主の趣味なのか、バタイユやブルトン等の極めてマニアックな書物も並んでいた。流石に分量が少なかったので、ここで手に入らない本は、電車で四つ目の繁華街か六つ目の繁華街の大書店で買うことになるが、仮にそれらの大書店がなかったとしても、ここで店主の趣味(?)に沿って本を買い揃えれば、中高生としては高度な文学的知識を身に着けることが出来ただろう。
しかし「生れ出づる悩み」を買った頃は、まだそこまでの知識もなかったので、本屋の文庫本の棚を一所懸命探したのだと思う。そして、旺文社文庫の『生れ出づる悩み』という本を見つけて、購入した。
旺文社文庫版がアマゾンで売っていたので、下に掲げる。
しかし、私が買ったのは確かに旺文社文庫の『生れ出づる悩み』であったが、正確に言えばこの本ではない。
当時、旺文社文庫は、箱入りの文庫本、という珍しいシリーズであった。箱も表紙も全体が薄い緑色で、表紙には絵は描かれていなかった。その後箱入りスタイルが廃止され、表紙に絵が描かれるようになった。アマゾンで販売されているこの本は、それ以降の版であろう。今手許に本がないので写真を撮れないが、ネットを検索したらあったので、引用させていただく(リンク:旺文社文庫 箱入り 生れ出づる悩み - 検索 画像 (bing.com))
また、旺文社文庫版の特徴は、巻末の「解説」が充実していることであった。その当時一流と呼ばれる研究者が執筆している場合が多く、しかも詳細な作家の年譜や、代表的な作品の解説まで載っていた。私は、買って来た本の本文を読むのは基本的に一回であったが(例外もある)、解説は何度も何度も繰り返し読んだ。
有島武郎という人は、裕福且つ家柄の良い家に生まれ、苦学することもなく欧米の学識を身に着けた、一言で言うと恵まれた人であるが、その文章と言えば重厚で、一体なぜ?という疑問を感じてしまうような人である。
私は、この本の中では最も長いが、それでも比較的短い「生れ出づる悩み」という小説を読み始めて、「これが大人の小説というものか」と思った。
一人称の、何となく重苦しい調子の文章で始まり、途中から突然、二人称に変わり、小樽沖の荒海での漁の描写が蜿蜒と続く。北の寒い海と南の海との違いはあるが、海の描写としては、私にとって、後日読んだヘミングウェイの『老人と海』と並ぶ、凄い描写であった。
有島のこの小説の文章の迫力は日本近代文学史上稀有なものだと私は思う。と言うより、その他の作品、例えば『カインの末裔』や『或女』も含めて、有島の文学の最大の魅力の一つは、その重厚で激しい文章にあるだろう。
その後、「生れ出づる悩み」という小説の形式や表現が、私が思った、「典型的な大人の小説」のそれではない、ということに気付くようになった。つまり、極めて高度な形式がこの小説で採用されている。北の海の描写も、最初一人称で登場する「私」の想像の産物である。しかしその想像は、「君」という二人称で呼ばれる主人公の話や手紙と多重化された想像の産物である。こう考えて来ると、この小説は相当高度な技法を駆使した産物なのであるが、同時にその重厚でリアルな文章の力が、その技法性を読者の目から十分に隠すことに成功している。
細部は忘れてしまったので(本を参照しながら書くこともしていない)、今これ以上書くことは出来ないが、実生活・仕事と芸術・観念との間での矛盾を、「食うための仕事」を充実させることを通じて乗り超えて行こうとする主人公の生き方は、現在実際に悩んでいる多くの人達に対しても、何らかの示唆を与え得るのではないかと思う。
形式、内容の両面で、掛け値なしの傑作だと思う。
最後の方に出て来たと記憶する(間違いかも知れない)、「揣摩臆測」とか「忖度」という言葉が、妙に印象的だったのを覚えている。最近「忖度」という言葉がニュースを賑わせたことがあるが、それを見聞きするたびに有島武郎のこの小説を連想した。
アマゾンで入手出来る幾つかの本を紹介しておく。
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