寺山修司の「歌舞伎座」と寺山修司記念館探訪記(2023年7月)
母親の事情で青森県三沢を去り、青森市の親戚の家に移った寺山修司が、その親戚の家が経営していた「歌舞伎座」という当時映画館に通い詰めていた、というそれだけの理由で、寺山修司記念館を今年の七月に訪れた。写真撮影は原則許可されていたので、記録を残しておく。
歌舞伎座という映画の劇場を寺山は文字通り我が家として使い尽くしていたようで、そこが寺山における「劇場芸術」の原点となったと考えられる。
上の写真のように、歌舞伎座跡は、今モルトン迎賓館の建物に変わっている。バス停の真ん前であるが、青森駅から海岸沿いの道をほぼまっすぐ歩いて30分弱程度の距離で、散歩できる。この日は8月の猛暑の日で、早々にアーケード街となっている駅前商店街に退散した。
前の舗道には記念碑が立っているが、不思議なことに二つ並んでいる。
右側の方には寺山の事績が書いてある。
左側は何かと思って見ると、詩人の福士幸次郎の記念碑であった。福士幸次郎と言っても多くの人は知らないと思うが、私はかなり前(子供か中学生の頃)何かの本に載っていた福士の詩を繰り返し読んだ記憶があり(その他に西脇順三郎とか野口米次郎とか日夏耿之介とか載っていた)、思い出して碑に書かれた文章を読んでみた。すると大変興味深いことが書いてあった。何と福士は、8歳の時から三年間、旅役者であった父と共に、この地にあった中村座の舞台に立っていたというのだ。弘前藩出身だということは書いてあるが、このことはWikipediaを見ても一行も書いていない。発見であった。来てみないと分からないものだ。「歌舞伎座」がその前「中村座」であったらしいことが推測される。同じ建物だったのかどうかなどは分からない。もう少し突っ込んでみる必要がある。
なおこの地域は、福士幸次郎や寺山修司だけでなく、棟方志功、太宰治、高木彬光、澤田教一らの所縁の地でもあるということである。何とも濃い。
この日の青森市海沿いは、猛暑でありながら、曇ったり晴れたり雨が降ったり天候が不安定であった。ホテルでは虹が見えた。
このようにして、私がライフワークの一つにしている歌舞伎が、歌舞伎座つながりで、寺山修司とつながった。そこで、熱烈な読者・鑑賞者としてではないにしても、かつて、本や映画や演劇や、そしてテレビやラジオを通じて、多少は触れていた寺山修司についてもう少し知るために、青森県三沢市にある寺山修司記念館に行ってみることにした。
但し、実際の行動ストーリーは少し違う。北海道の(今はなき)農村歌舞伎を少し調べてみようと思って(とは言え本格的な研究は既に幾つか行われているので、それらを検証するための色合いが濃い)、今年の7月に北海道の札幌市と滝川市近郊の北竜町を訪れた(これらについて後に紀行記を書く)。その帰りにたまたま三沢に寄ることにして、三沢から自宅のある盛岡まではそれ程遠くないのでそのまま帰ることも出来たが、「歌舞伎」という単語に敏感になっている目が、寺山修司の記事の中に「歌舞伎座」という言葉を見つけた(最近は、「スクリーン」という言葉がしばしば「スターリン」に見える)。そこで三沢にある寺山修司記念館に行き本格的に調べてみようと思い立った(結果としては、歌舞伎座についての文章が一つ展示されていた)。順序としては、先に寺山修司記念館に行き(これが7月の終わり)、その後少しして(8月)青森市の旧歌舞伎座後を訪れた、という順序になる。現実の出来事はかなり偶然に左右されるが、それをストーリーにしようとする一種の合理化機制が働くということの一例である(横光利一という作家は、偶然性に左右される「通俗小説」の方が純粋な小説なのだ、といった理論を提唱していたが、成程と思う)。あるいは、ストーリーの物語言説化に際しての編集的改編の一例である。
上述のように、寺山にとって「劇場」の原点になったのではないかと推測される歌舞伎座そのものの詳しい情報を見つけることは今回はできなかったが、寺山修司記念館が面白かったので、以下に写真付きで紹介する。
北海道の苫小牧港を夜出港する川崎汽船のフェリーに乗り、早朝八戸港に着いた。
ところで札幌から苫小牧までは電車で行き、苫小牧駅のフェリー乗り場側の出口に出たら、かなり広い駅前ロータリーが真っ暗で、タクシーが一台も止まっていなかった。フェリー乗り場直行のバスはない。コロナの前までは何度もこのフェリーを利用していて、ここからタクシーに乗るのが一番便利、という記憶が頭の中にあった(それ以前に、駅の表示にもフェリー乗り場に行く場合はこちら側と出ていた)。暫く待ってもタクシーは一台も現れない。しかしまだ午後8時にもなっていなかったので気楽な気分でタクシー会社に電話すると、暫くの間全くつながらなかった。雨が降っている訳でもなかった。それで15分以上かかった。やっとつながったと思ったら、「もう営業は終了した」ということ。一応事情を話し、営業しているタクシー会社を教えてくれないかと言っても、「知らない」とのこと。時間に十分余裕をもって港に着く筈であったが、そんなこんなで30分以上が過ぎた。もう無駄だと思ってかなり遠い駅の反対側の出口に重いキャリーバッグを引き摺りながら出ると、そちらにはタクシーがいる。恐らく地元の人は、こちら側の方がタクシーが多いことを知っているのかも知れない(しかし、次にこの経験に基づいて行動して失敗する、という可能性もある)。飛び乗ってフェリー乗り場を指定すると、その反対側、つまりさっきまで30分以上待っていたロータリーの脇を通過して行く。その時、一台のタクシーがドアを開けて待機していた。さっき何度か電話して「すべて」断られたいずれかのタクシー会社の電話交換の人が、何かの方法で呼んだのかも知れない。一言言ってくれれば大慌てで反対側に行く必要もなかったが、もう遅い。そんなこんなで、フェリーに乗るのがぎりぎりになった。
この出来事はたまたまだと思ったのだが、同じ方法で何度かフェリーに乗っているが、コロナ以前にこういう目に遭ったことはない。そこでコロナのせいで客足の遠のき、どうせ来ない客を待つよりは早々に店仕舞いする会社が増えたのかも知れない。
と思ったが、その後北海道の東部などを回り(それについては後で書く)、公共交通網が破綻的な様相を呈していることを実感した。そういうこととも連動している可能性がある。
さて、今度はフェリー乗り場からバスに乗って八戸駅に出、そこから青い森鉄道で10数分、三沢駅で降りた。
三沢駅は小さな田舎の駅かと思っていたら、確かに新幹線が通って以降青い森鉄道しか通らず、特急も止まらない駅に格下げとはなったが、改札を出た隣接したビルには、休憩も食事も待ち合わせも仕事も勉強も自由に出来るきれいで広々としたスペースがあり、カウンター席では充電もできる。熱心な高校生が勉強していた。私の勤める大学の最寄駅もこんな感じだったらと羨ましかった。三沢にいた小学校から中学校にかけての寺山修司の拠点はこの駅周辺であった。
さて、三沢駅前から、土日だけ運行しているらしい無料の市内循環バスに乗って約30分、かなり山奥にある寺山修司記念館に着いた。途中、市街を抜けると一時丈の低い草の生える草原の中を走り、変わった風景であった。
一応、場所を御案内しておく。下北半島の付け根の辺り、小川原湖と小田内沼の間にある。
橋を渡って入る。オブジェが手招きしている。
常設展の他、「手紙魔 寺山修司」という企画展が開かれていた。
一応真っ当なパネルが入り口付近にある。
寺山が死んだのは1983年5月4日だったか。もう少し後のような気がしていたが、以外に早かった。
常設展は奥の方にあり、それとは反対側のスペースには三沢在住の頃の寺山に関する資料があり、この土地での小学校から中学校にかけての寺山を巡るビデオコンテンツもあった。その当時は三沢ではなく、古間木と言い、駅も古間木駅だった。古間木中学校の時の集合写真が展示されていた。
ビデオによれば、寺山修司記念館は小学校時代の同級生が中心になって寺山の死後設立されたものであった。
この三沢の地を出て青森に出た後、寺山修司の映画館「歌舞伎座」が現れる。
これは企画展の方の展示であるが、同じく次のようなものもあった。
「実際に起らなかったことも歴史の裡である」―このような言葉に感応する「文学的感性」といったものは、寺山の死後徐々に後退して行き、今では殆ど崩壊寸前である。しかし、それは「実際に起らなかったことも歴史の裡である」というようなことを誰も信じなくなった、ためにそうなりつつあるのではなく、「実際に起らなかったことも歴史の裡である」といったことがあまりにも散文的に、大っぴらに「現実化」される、という経路を辿って、そのようになった、と考えた方が良いかも知れない。もしかしたら寺山の想像力を凌駕するかも知れない嘘や偽情報、「実際に起らなかったこと:が、その剥き出しの力を現実の中で発揮してしまう時代が来てしまった、と言えるかも知れない。寺山が生きていたら何と言ったか、興味深い。
記念館には、寺山自身の著作、寺山の蔵書、関連する書籍など、多数の本も保管・展示されていた。
写真家森山大道の本も置いてあった。
森山大道に関しては、長らく川崎市市民ミュージアムでキューレーターをしていて、現在は武蔵野美術大学大学院他複数の大学で教え、50年ぶりに復刊した雑誌『写真批評』に関わっている深川雅文氏から教わった。前に私が勤めていた山梨大学のメディア論の授業の半分程を深川氏にお願いしていた。主なテーマは専門のバウハウスであったが、森山大道をはじめ日本の何人かの写真家の話も面白かった。(深川氏とは、20代の時共に働いていた渋谷の会社以来の付き合いである。その頃深川氏はその後出版されたフルッサーの『写真の哲学のために』の翻訳初稿を見せてくれ、私は私で物語生成システム研究の最初期案である「文学機械プロジェクト宣言」の草稿を見せた。いろいろ忙しく暫く会うことがなかったが、最近少し話をする機会があった。)
寺山関連のものとは別に、森山大道には、北海道の岩見沢市を拠点として撮った一連の激しい写真がある。写真の舞台となった場所を、かつて尋ねたことがある。
全然関係ないとは思いますが、岩見沢駅のホームの情景。
後で紹介する常設展示会場の奥、一段下がった場所に書斎のような場所があり、普通の感じでたくさんの本が並んでいた。
その書斎風の部屋ではビデオを視聴できるようになっていて、この辺普通の文学館とか博物館っぽい所です。ここに載っている寺山作品は見ていないものの多いが、時間がある時、この場で視聴するのも乙なものかも知れない。寺山はテレビ番組『徹子の部屋』とか『知ってるつもり!?』にも出ている。「あしたのジョー」の主題歌が寺山作詞であることは当時から知っていたが、私がリアルタイムで知っていた寺山修司は、テレビなどにもさかんに出没する「芸能人」であった。深夜番組や競馬番組にもしょっちゅう出ていて、激するでもなく顔付き自体がそうなのか少し笑っているような感じで、青森弁まる出しの平板な話し声で坦々と喋り続ける寺山の姿は何か不思議であった。
常設展示室の方は不思議な構造をしているが、大きな部屋の壁には映画や演劇や本のポスターやパネルが貼られ、あちこちに様々なオブジェが置かれている。お馴染みの、懐かしい写真の拡大パネルが何枚もあった。
多分最後の映画である『さらば箱舟』のポスター。岩波ホールか何処かで見た記憶がある。主人公役の山崎努が庭で鶏を執念深く追い掛け首を包丁な何かでちょん切る場面が面白かった。
『書を捨てよ町へ出よう』や『田園に死す』を見たのは何処でだったか何時だったか忘れたが、何処かの小さな映画館で見た記憶がある。
篠田正浩の『乾いた湖』は寺山の脚本。
本の方の『書を捨てよ町へ出よう』の拡大オブジェ。
よくある顔出し記念撮影用の展示物もあり楽しめる。実際にやっている人はその日は見なかったが。
通路には奇妙な人達が数人いた。
これらの人物たちは、次に紹介する舞台風展示の真向かいにいる、観客達かも知れない。
これは渋谷の並木橋の方にあったものか。寺山や唐十郎や鈴木忠志や佐藤信らの「小劇場」が一世を風靡したのは1970年代で、私が大学に入った頃にはその運動は終わりかけていた。私は70年代に何と歌舞伎や能に興味を持ち、そちら側しか殆ど見ていないので、寺山らの演劇運動はほぼ伝聞情報としてしか仕入れてはいなかった。寺山らの芝居は部分的には映像を通じて伝わってくることがあったが、私としてはほぼ触れていないと言った方が良い。早稲田小劇場自体には行ったが、あまり近付かないように自制しながらであったし、その後一時期小劇場での演劇を続けて見た時期があるが、それはポスト寺山らの状況においてであった。従って、寺山や唐十郎らに触れたのは、書物と映像を通じてが殆どであった。歌舞伎や人形浄瑠璃については
「舞台でないと分からない」と言っている身としては、寺山修司の演劇について語る資格が私には全くないのが、心残りではある。興味を持った頃には寺山修司は既に死んでしまっていた。
(渋谷・並木橋と言えば、先程の深川さんは同じ会社の並木橋のビルにいて、私の方は渋谷駅前、当時あった東急文化会館の真裏にあった南塚ビルという古いビルの方のオフィスにいた。何かと理由を付けてはこの界隈で無駄話をしていたようだ。)
実際の舞台の映像か。
さて、先程の奇妙な人物や人魚姫が向かい合っていたのは、このような舞台を模した巨大な展示物であった。
舞台下手には「私」「死」などの文字の大きなオブジェが並ぶ。
さらに接近。下に机っぽいものが見える。
これは舞台上手側の出っ張った部分の人物やオブジェなどです。舞台の下に、机っぽいものが幾つも見えるようだ。
次は下手側の奥の方を下から撮ったものである。
中央付近には天井桟敷館の屋根の上の、何やらヤバそうなおじさんがいる。
苦役者が巨大なものを運んでいる。その向こうには傘も見える。
さて、この舞台はただでさえかなり広い常設展示室の大きな部分を占めるが、恐らく常設展示室のメインの展示物はこれから紹介する(舞台に下に時々見えた)、机(と椅子)の方だろう。実は、舞台の下には、こんな風景が広がっていた。ご丁寧に「机」と大きく案内されているように、机とそれに付随する椅子が複数置き並べられていた。
もっと全体像に近い写真。向こうには、前に紹介した映画のポスターなどが見える。
どういう配置で幾つかあるのかをメモに書き留めた。
日付け付。
個々の机にズームアップしてみると―
別のアングルから見る。
このように、何枚かの写真で示したように、舞台の下には11のそれぞれかなりずっしりとした机と椅子が整然と配置されており、個々の机はライトで煌々と照らされている。また奇妙なことに、そんなに明るいのに、机の上には懐中電灯までおかれている。
この机が寺山修司記念館における最も独自なところで、これは入る時受付けでも説明を受けるが、展示物はそれぞれの机の引き出しの中にぎっしりと詰め込まれていて、我々は机を開け、懐中電灯で照らし、目的のものを見るのである。机の上は明るいが、引き出しの中は暗く、懐中電灯で照らさないとよく見えない。また、時間をかけないと良く見えない。壁に貼られたり展示用の箱の中に鎮座している展示物を、その前を順序通り歩いて行くことによって、かなり受動的に鑑賞するという通常の博物館や文学館における展示方法とは全く違って、ここでは「鑑賞者」が能動的に机の引き出しを開け、何かをライトで照らし出すことによって、はじめて十分に見ることが出来るのである。その時、「鑑賞者」は見ることに集中することを求められる。向こうから目の中に飛び込んで来てくれることはないのである。
このように、寺山修司記念館では、対象を見るその仕方・形式を通常とは全く異なるものとすることによって、対象物と鑑賞者との関係を変えているのである。
現実的な意味では、じっくり見るためには、相当の時間が必要であり、私自身、今回は三時間程度滞在したのであるが、十分に見ることが出来たとは言えなかった。
それぞれの机には、異なるテーマが割り振られている。私は今回は特に演劇に関連する机を集中的に見た。
机を開けると、例えばこんな状態になっている。
良く見えない時は懐中電灯で照らして見る。
街頭演劇『人力飛行機ソロモン』は、直接見てはいないが、その映像作品を見て大きな興味を持ったことを覚えている。脚本原稿を見ることが出来た。
『人力飛行機ソロモン』関係の引き出しの中の展示物。
その他、種々の演劇作品の脚本原稿や脚本の冊子があったのが最も興味深い。
メモするのを忘れたので作品が分からないが、何かの脚本原稿。
『青森縣のせむし男』の脚本と架空の履歴書もあった。
企画展とつながる、『書簡演劇』の脚本。
映画版『書を捨てよ町へ出よう』の脚本である。
天井桟敷の新聞が発刊されていた。
演劇『百年の孤独』が後に映画『さらば箱舟』になるのか。
次の写真のように、何やら青く光っている机もあった。
これは何かと言うと、机の上の天井から光線が出て、机上に映像が移り、音声付きで展開されるのである。ここでは机の上に投射された寺山修司が喋り始め、演劇論を展開する。ビデオも撮影したので残っているが、その中には、歌舞伎のような権威付けられた芝居の中の物語よりも、街の煙草屋のおばさんが話す物語の方がずっと面白い、といったことが述べられている。つまり権威を破壊する、というコンセプトの話であり、それ自体非常に面白く刺激的な話なのであるが、では今は?と考えると、街角の煙草屋の多くはなくなったが、SNSの中で、私を含め膨大な数の平凡な者達が、それぞれの権威付けられていない物語を、勝手に語る時代が、寺山の死後数十年、訪れているのである。寺山がここで言う願望が実現された、と解釈することは可能であろう。しかし同時に、それらの物語は、権威付けられたものとしてのシステムの統制の下に語られているものであることも確かであり、そうであるとするならば、寺山のここでの願望が実現された訳ではない、という風に言わざるを得ない、とも思える。寺山と共に若い時代を送った者ではない者の中からの寺山評価が行われるのか、行われるとしたどのように行われるのか、興味深い。
日記を覗くことも出来る。これこそ机の引き出しを開けて見る、という行為に最もふさわしい行為かも知れない。
さて、暗い世界からいきなり明るい世界に出る。但し、裏の方である。
寺山修司記念館の、写真の赤いドアから、裏庭の方に出ることが出来る。
そこから山道を辿り、小高い丘を登って行く。
見えるのは小川原湖か。
坂を登り切って、また少し下ると、小さな広場になっていて、その突き当りに記念碑(寺山修司文学碑)が立っている。
振り向くと、これは小川原湖ではなく、小田内沼か。
両脇の石には、碑の説明(と言うか寺山修司の説明)が日本語と英語で書かれている。
左側の石には、英語による説明がある。
中央の碑に刻み付けられているのは数種の短歌であり、その前で犬が首を垂れている。
君のため一つの声とわれならん失いし日を歌わんために
マッチ擦る束の間海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや
寺山修司
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