仏教...

これは「生き方の心構え集」みたいなもので

だんだんその意味がわかるようになってきた気がする...

自分のいってるのは原始仏教みたいな感じなのかな?

考えれば考えるほどシンプルにうまくできた体系になっている気がしてきた,仏教って!!

理学をはじめとする人間社会で,根源的なところで壁に当たった時とか,けっこう仏教で言っていることが本質をついているなって結構おもったりする...

たとえば次の疑問にみなさんはさくっと答えられますか?

・怒りの気持ちをもつことはなんでいけないんだろう
・他人を悪く言うことはなんでいけないんだろう
・復讐してはどうしていけないのだろう
・知識ばかりを増やしてはどうしていけないんだろう
・欲張りであることはどうしていけないのだろう
・無駄な争いはどうやったら無くすことができるのだろう

なんとなくダメだ(でも人類からはなくならない)というお約束にあるというか,それはわかるんだけども...なんでかをバシッと説明できるひとも少ないとおもう.こういったことに,仏教は答えを用意しているようだ.なんでそんな答えなのか,それはたぶん,戦争とかネガティブな争いを生じさせないためのものじゃないかな,とおもう.他人や周囲というのは制御できないのだから,よりずっと制御可能な自分自身という対象に対してアレコレしていくほうがよっぽど実りが期待できるよ,ということなんだとおもわれる.しかも,自分が!自分が!となったりして周囲に加害しないように考え抜かれている...そんな感じ

仏教の不思議な考え方として「中道」というのがあるみたい

快・不快ではくて三番目のそのどちらでもない状態を中道っていうらしい.この中道を続けよってことみたい...

不快をできるだけ減らすのは分かるけど,快も減らすのだ!という考えは,とても不思議なんだけど,つまりはあんまり欲張ってはいけない,欲の海に溺れないようにっていうことなんだとおもわれる...

それから「欲」っていうのはつまりは「不快」と同じことなんだ,ということに気が付いた

何か足りないと欲している状態というのは「不快」なのだ

たとえるならトイレに行きたくて,もれそうな不快な状況で笑,なんとか用を済ませ,反作用的にすっきりとした「快」になるようなものだ

ちゃんと排泄欲という不快を満たすと快になってるでしょ...笑

このように快を求めるということの多くは,欲求という不快をもつということと同じことになってしまう!

だから快でも不快でもなく中道をキープせよ!ということだとおもう

そして実は「中道からちょっとした快」になる道というのがあるんだとおもう

不快から快へと激しくジャンプするのではなくって!

理学の言葉で言うと,たしか理論 (theory) という言葉の語源なんだけど「理論とはつまり,そこはかとないありのままの観察そのものだ」ということなのかな~とおもう

涅槃(ねはん)とか悟りとか智慧(ちえ)というのはそういう感じに通じていて

キリスト教とかのカミサマという偶像や理想もきっとそんな感じで

分かった!というような力んだ欲を満たす感じじゃなくて

ありのままにそんなものだ,という感受できるようになるまで

修行せよ,ってことなのかな~と気付いたのかな

すくなくとも,これからは,そんなふうにすこし知ったかぶりをして生活をしてみよう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?