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きょうだい児だった

私が小学6年生のとき、2歳上の姉が不登校になった。

その頃から私は、家族や親戚を安心させるためにも自分が頑張らないと、と思うようになった。おそらく、それは「お兄ちゃんなんだから」「お姉ちゃんなんだから」というふうなプレッシャーに似ている(私には2歳下の妹もいる)。

しかし当時は私も私で、学校に行けなくなってしまった時期もあったくらいには学校に馴染むのが苦手だった。

それでも私は、必死の思いで高校3年生まで進級した。しかしそれと同時に、通信制高校を1留していた姉が高校を卒業してニートになった。

当時、私は大学に行くために勉強をしていた。しかし、その頃の私は音楽の道を諦めたばかりで、大学でやりたいことも特に無かった。そのため、姉は怠けているのにどうして私は受験勉強を頑張らないといけないんだろう、と本気で思っていた。朝、高校に行く前に泣いてしまったこともあった。

この頃から、私は姉と口が聞けなくなった。私は姉のことが大嫌いだった。

2020年春。私がなんとか大学に入学したとき、COVID-19のパンデミックが始まった。オンライン大学生活が始まり、姉が一日中いる家で過ごすようになった。この1年間も地獄のようだった。

やっと姉と口が聞けるようになったのは、大学3年生の冬になってからだ。ちなみにその頃、私の姉には自閉スペクトラム症 (ASD) 傾向があるということを、母親から初めて聞いた。

障害者は社会によって抑圧されているということ。それは性的マイノリティである私も同じだということ。私にはたまたま自分に合った環境があったから、「ふつう」に暮らせているということ。そのような知識をもつようになった私は、次第に姉を受け入れられるようになった(まあ正直、働けるようになってほしいとは思っているけれど)。

しかし、それまでは本当につらかった。我が家は3人きょうだいなので、ひとりひとりのケアに割けるリソースには限りがあるし、うちの親はよくがんばってきたと思う。でも、もっと私が納得できるように説明してほしかった。どうして姉はみんなと同じように学校に行けないのか。どうして姉は働けないのか。私が納得できなかったとしても、時間をかけて話をしてほしかった。

きょうだい児(障害をもつ子どものきょうだい)だった私は、絶えずプレッシャーと不平感を抱えながら思春期を過ごした。本当は、私の悩みにゆっくり向き合ってくれる人が、私には必要だった。

正直今でも、この悩みや感情を克服できたわけではない。

あの頃の私はまだ私の中にいる。私は、ひとの悩みをきちんと聞いてあげられる人になりたい。

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