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アルコールを飲んで暴れる人が出てくる話が子供の頃、僕には必要だった

※今日の話は家庭内暴力に関しての話なので、
フラッシュバック案件を抱えている方には、
ブラウザバックを推奨いたします。
読もうと興味を持ってくれてありがとう。
らぶ。あなたの心身の健康を願います。



実(父が一人暮らしをしている)家の、

金属製玄関ドアはへこんでいる。

冷蔵庫のドアもへこんでいる。

天井には間抜けな話だが歯磨き粉が貼り付いている。

これら全て、僕が子供のときに実父が暴れた跡である(そしてそれらは今でも残っている)

物心ついた頃から、僕の父親は家で暴れる人だった。


僕の、幼稚園に行くか行かないかの頃の記憶で、
夕食時に自分の頭の上をビールの入ったグラスが飛んでいく、というものがある。

グラスは当然背後で落ちて割れたが、そもそも空中を飛んでいく時に中に入っていたビール自体が(当たり前だが)こぼれて、それを僕は頭から被った。

こういうことが誇張なしに日常茶飯事だった。


この手合いのエピソードを人に話すと、
一体そんなにお父さんが怒るなんて何をしたの(何があったの)

という反応をされることが多々ある。

というか実際にされてきた。
面と向かって言われたことも多い。
無礼すぎる。

主語を大きくして言わせていただくが、
DV加害者が暴力を振るうことに理由はない。



そもそも理由があったら暴力を振るっても良いとうっすらとでも無意識に思ってしまっている人間が多いことは悍ましいと思う。
理由があって怒っていて暴力を振るうのは仕方ないということなら、一体何をしたの?と面と向かって抜かしてきたお前の発言でこちらは大いに気分を害したのでお前のことは殺していいってことだよな?と子供心に思っていた。


家庭内に一人こういう世間一般からズレた危険人物がいると、生活の基本的なレベルがとても低い、(あるいは考えようによっては高い)ものになる。

一番重要なのが「死なないこと」。

次が「極力怪我をしないこと」。

死なないためにはどうしたらいいか、
極力怪我をしないためにはどうしたらいいか、
という考え方が何をするにも常に大前提としてある。


だからか、ある種の危機管理能力を、有している子供だったと思う。
端的に言えば世界の善意を信じていなかった。
青信号を守ったところで突然暴走トラックが突っ込んでくるかもしれない。
ただ道を歩いているだけで気の狂った通行人に襲われるかもしれない。


常に危険に備えていたのだと思う。
備えることで精神の安定をはかっていたのかもしれない。

中学と高校の頃は制服のポケットに常にハサミを入れていた。
なるべく切れ味の悪いものを選んで持っていた。
切れ味が良い刃物で切られるよりも、切れ味の悪い刃物で切られるほうが、痛くて治りが悪いと聞いたからだ。

それを使って立ち向かわないとならないような場面に、外を歩いていて出くわすことがなかったのは幸いだったと思う。

とはいえいちいち気を張っていると人間は生きていけないので、命がかかる以外の場面の様々なことに対しては、とてもいい加減でもあったと思う。

父親がDV野郎なわけだが家庭内暴力を振るう人間のひとつのパターンで、
彼は外面が尋常でなく良かった。

また、暴れたあとは大概罪悪感に苛まれて極端なサービス精神を発揮した。
泣きながらだきしめられたりした。
突然ディ●ニーランドに連れていかれたりした。
でも、帰りにはもう機嫌が悪かった。
毎日がジェットコースターだった。

僕が望むまま、必要以上に習い事に通わせてもくれた。
それというのも僕には僕で、芸でいちはやく食べていけるようにして家を出て行きたいという魂胆が当時あったので、各種の習い事は僕にとっては必須だった(子供の頭で義務教育が終わってすぐに家を出る方法はそれしか思いつかなかった)。

けれど、どの習い事も発表会みたいな、注目されるようなこと、家庭内の中心が子供たる僕や僕の兄弟になるようなイベントが近くなると、父の機嫌は悪くなって、必ずと言っていいほど前日に暴れた。
僕は覚えていないのだが、年の離れた僕の兄弟は高校入試の前日に暴れられているそうだ。

父が暴れ始めると誰も安全に寝ることができないので、寝ないで発表会などの会場に向かうことも多かった。僕も兄弟も一睡もしていないまま、踊ったり歌ったり楽器を演奏したりした。


外面がいい父親は、親戚や隣近所、仕事先、あるいはよく出歩く先での評判は大変よかった。
たとえば父が通っていた美容院の美容師たちからは大層父のことを褒められた。

あなたのお父さんって素敵な人ねと言われた回数で耳にタコができていたら一生たこ焼き屋で暮らしていけるくらいの回数分は言われた(そのたこじゃないことはわかってる。冗談だ)。

強烈な裏表。
だまされ続ける世間の見る目のなさ。
あるいは騙されているわけではなく、僕らの父親の不健全さを知っていて気づかないふりをしていたのなら、それはそれで気持ちが悪かった。

そういうものを 長期間、目の当たりにさせられ続けると、この世の良きものの大概が胡散臭かったし信用ならなかった。



見るからに問題がある空気を纏ってくれるほうが安心できた。
無口だったり、
評判が悪かったり、
汚かったり、
ずっと何かに向かって独り言を言っていたり、
陰でこそこそではなく昼日中から酒の匂いをさせて千鳥足だったり、
そういう人のほうが余程信用できるような気がしていた。
問題が目に見えるのなら対処のしようがあるからだ。

こういった傾向の副産物としてなのか。

小学校低学年までの間に、学校で推奨され与えられる本は、ことごとく胡散臭くてダメだった。


だって教科書に載るお話に、
学校の指定推薦図書に出てくる本の中に、
酒を飲んで暴れる父親が出てこない。

母親を殴って怪我をさせる父親が出てこない。

母親に包丁を持たせて、悔しかったらこれで俺を刺してみろ、とか煽る父親が出てこない。

出ていけとかいなくなってくれとかいっそ死んでくれとか呪文みたいに罵り続けてくる父親が出てこない。

家にはいるのに?

おかしいのは僕のほうなのか?


もしかして、頭がおかしいのは本当に自分の父親だけで、世の中にはああいう父親などは存在しなくて、自分はとてつもなく特殊な環境にいるのではないだろうか、と悩んだのは小学校の3〜4年生の時だった。


子供の世界は極端に狭い。
そしてその狭さをさらに凝り固めるように、ハートウォーミングな、ちょっとした諍いで泣いたり仲直りしたりする家族が出てくる話ばかりが周囲にあった。

学校には、シングル家庭の子達もいたのだけれど、家で暴れる家族がいる話は誰もしていなかった。
していないだけで、他にもいたかもしれない。
今となっては確かめる術もないけれど。

とにかく、共有できない悩みで絶望的に孤独だった。


母親の読書棚に侵入して大島弓子先生の作品に出会ったのは、多分この頃だ。
大島弓子作品の中に出てくるちょっと変な家族にとても慰められていたと思う。
大島弓子作品に出てくる登場人物は、変わっていたり、ちょっとずるかったり、頑なだったり、強引だったりした。
胡散臭い匂いがしなかった。
表面を取り繕ったものは、作中で必ず暴かれていた。「夏の終わりのト短調」などは繰り返し読んだ。
大島弓子作品では、エセは暴かれる。
けれど、エセに対しての眼差しも優しかった。


友達が課外授業に持ち込んだ小花美穂先生の「こどものおもちゃ」も画期的な存在だった。
様々な社会問題がそこに盛り込まれていて、子ども心にもセンセーショナルだった。


それでも大酒飲みの暴れる父親はまだいなかった。

自分の日常が悪意と暴力と危険と気まぐれに囲まれているのに、大抵のフィクションがキラキラしすぎていた。
現実逃避的に夢を見るのもいいのだけれど、現実逃避を受け入れるには孤独過ぎた。

人間は、そういうしようのない生き物で、醜く、愚かで、救いようがなく、悲惨なものだということをただそのまま描いて放置してくれる話が必要だった。

きっかけは、小学校5年生のときに、「嵐が丘」を読んだことだったのかもしれない。これも母親所有の書棚にあった。
薄暗いヒースの丘と、ヒースクリフの存在感に、僕は三日で嵐が丘を読み終えた。
大人の本(と、当時文庫本をそう捉えていた)を三日で読み終えてしまったぞ、という興奮があった。
何かすごく満足のできる読書体験がそこにあって、ただ何に満足したのかがまだわからなかった。

求めれば与えられるというのは聖書の言葉だけれど、ドストエフスキーの「罪と罰」に出会ったのは、その後の小学校6年生のとき。
学校の図書室のロシア文学コーナーで、だった。


ものすごいカタルシスだった。

他者を存在する必要のないものと、本人の理論にのっとって断じて、物理的に始末してしまう学生ラスコーリニコフは、僕がなってみたい僕の姿であり、そこに出てくる人たちの過剰な反応、多すぎるセリフ、台無しになるたくさんの物事、貧困、生活のままならなさ、ヒステリーや暴力は、どれも見慣れた存在だった。
知ってる世界の匂いがした。
塊になって僕に寄り添ってくれるかのようだった。

酒を浴びるように飲んで暴れて罵声を浴びせ、次の日にはすっかり小心な人物としてこちらに気を使うような素振りをする、涙ながらに愛情を示すようなことを熱心に語る、そういう情動のジェットコースターみたいな実父。
同じような登場人物がドストエフスキーの書く作品の中にはいた。
まるでドストエフスキーの作品から抜け出てきたみたいな父だった。

僕はそれでなんだかすごくホッとして、孤独ではなくなった。

僕を悩ませる存在が人類史にとっては珍しくもなんともないということを確かめさせてくれたのは、ドストエフスキーだった。

ああ、そういう人はね、いるんだよ。別に珍しいことじゃなくて、確かにいるんだよ。困ったもんだよね。そういう人が父親なんて、運が悪かったね。

誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
僕に最初にそう言ったのは、ドストエフスキーだったんだ。

罪と罰は僕の話だと思った。

そうしてその後の中学生で、今度はカラマーゾフの兄弟を読んだ。カラマーゾフの兄弟も、僕の話だと思った。
文学を、僕の話だ、と思い込んで読めることの幸福。
僕は孤独じゃなくなった。

アルコールを飲んで暴れる人が出てくる話が子供の頃、僕には必要だった。

出会うまで、わずかに時間はかかったけれど、僕は出会えた。
フィクションが支えになることはある。
でもそれが、現実を超えた理想的世界であればいいのか、癒されるものであればいいのかというと、そうではないこともあるんだ。

自分を囲んでいる理不尽を、理不尽として認識するための時間を、一緒に持ってくれる、現実を超えた現実。
そういうものに出会ったとき、人は孤独じゃなくなるような気がする。

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