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タルコフスキー監督『ストーカー』が長すぎた件

とあるミニシアターで、タルコフスキー監督作品の特集しているのを知って、気分転換に行ってきた!
スケジュール的に『ノスタルジア』か『ストーカー』かしか合わなくて、『ノスタルジア』は前回観たから、今回は『ストーカー』を鑑賞することに。1979年のソ連の映画。

164分かあ‥‥‥。3時間近いじゃん~。うーん、ちょっと寝不足気味だけど大丈夫かなあ‥‥‥なんて思っていたら、案の定、途中でウトウト…😪💤ま、進むテンポがゆっくりだから、少しくらいウトウトしても大丈夫でしょう~(?)
じっくりと世界に浸って作品の深みを味わいたい作品なんだろうけれど、さすがに長~かった~。トイレに立って行く人も何人かいた…。

深みのある映画が好きな人、詩的なモノが好きな人、考えるのが好きな人、そして忍耐力に自信がある人(長いから…)にはおすすめ。
映画を観に来ている人は年齢様々だったけれど、以外にも若い人が多かったのに驚いた。

タイトルの『ストーカー』だけれど、多くの人が思い浮かべる犯罪の「ストーカー」ではなく、ある特殊な場所への案内人のことを指していうことば。ここでは、旅のガイドさんみたいなもの。…といってもまったくウキウキしない旅。

ちなみに、チェルノブイリ禁止区域で働いている人が自らを「ストーカー」といっていたようだけれど、やはりこの映画の予言性などが影響しているのかな?
なんでも、映画に出てくる「ゾーン」という場所がチェルノブイリ禁止区域を彷彿とさせるみたい。原発事故が起きたのは1986年で、映画は1979年であるため、その予言性が指摘されているらしい…。

ストーリーはなかなかユニークだったけれど(意味不明なんだけれど)、終始不穏さがつきまとって離れない。

ある地に、隕石の墜落かなんかでできたと言われる(はっきり分からない)、「ゾーン」と呼ばれる区域がある。そこはとても奇妙で危険な地とされていて、政府によって立入禁止区間とされている。
普通の人は、おっかながって近づかない。でも世の中には変わり者もいるから、そういう場所へ行きたがる人もごく少数いる。
いや、変わり者とひとくちに言うのはあまりよろしくない気もする。現実世界に絶望を抱いている人が、「ゾーン」という未知の場所へ、何か救いを求めて向かっているようだったから。

この映画に出てくる人は皆そうだったかも。思い描いた日常を送ることが出来ない人たち、そこから脱したいようだった。その一つの手段として、聖書を暗唱する場面や、詩を暗唱する場面がでてくる。神や詩のことばに救いを見出そうとしている。

「ストーカー」と呼ばれる案内人は、そういう人たちのため(たぶん自分自身の救済のためでもある)、警備の目をかいくぐって(というか強行突破して)「ゾーン」へ導くのだ。目指すは「ゾーン」に存在する「部屋」だという。

タルコフスキー監督作品だし、一筋縄ではいかないことは覚悟して行ったけれど、「ゾーン」が何なのか、「部屋」が何なのか、何が何を示しているのかは明確には分からない。ただ、やっぱり救いとか、希望とかを表しているのだということは分かる。だから、そこへ辿り着くのはとても困難なのだ。滑稽なほど……。

とはいうものの、実際救いの手を差し伸べられた時、彼らは自らそれを拒否してしまうようにも思えた。だから、結局は現実から逃れることはできない(むしろ離れたくない??)気も。

ま、そこまで深読みする気はなかったので、ウトウトしつつも、光と水、砂や土、美しいが不思議な陰影ある映像をボーッと眺めていた。

そしてこの映画を観ていて感じるのは、水の音って幾多にも及ぶということ。オノマトペにしたらいくつできあがるだろう。
水の音は無限性を秘めている!

 光の中降る雨に神々しさを感じてしまう。

ぜんぜん綺麗じゃないオッサン3人(案内人のストーカー、作家、教授)を主としてストーリーが進むんだけれど、視覚と聴覚がかなり研ぎ澄まされてくるため、オッサンさえ綺麗に見えて…くる……ような…。
……やっぱ気のせいかな。

足の不自由な少女がタンポポの綿毛に囲まれながら詩を暗唱している場面はとても印象的だった。きっと何らかの力を秘めている少女。うーん、子どもでさえ笑顔の欠片もない日常なのだろうか。
少女が暗唱していた詩が良かった気がするけれど、どうしても思い出せない…!

そして、最後はまたベートーヴェンが使われていたのだった。
『ノスタルジア』同様「歓喜の歌」が流れるんだけど、うーん…、無理矢理救済感が襲ってきた気がして、ちょっと戸惑ってしまった。

映画が終わって映画館の外へ出たとたん、都会の喧騒の中に突然放り込まれた感じがした。いつもの光景なんだけれど、しばらくボーーッとしながら歩いてしまった。


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