公慶上人! 大仏さんに会えるのはあなたのおかげ
東大寺復興の大恩人 公慶上人
奈良の東大寺は2回焼けています。
一度目は源平の合戦の頃。
二度目は三好松永の戦いというのが起こった戦国時代頃です。
二度目に焼けたときの戦乱は『永禄の兵火』とも呼ばれ、1567年のことです。
傷ついた大仏さんの頭部や胴体は応急処置がされ、大仏殿は仮屋が建てられていましたが、1610年、大風にによって仮堂が倒壊。
以後、大仏さんは鎌倉の大仏さんのように、露座の状態(むきだしのまま風雨にさらされる)ことになってしました。
この様子を見て暮らしていたのが、公慶上人です。
この時は徳川幕府の時代になっていましたが、幕府も財政難だったようで、公的な援助は得られませんでした。
公慶上人は、自らの足で勧進を募って歩いたといいます。
この「公がやらなくても自分がやる」という選択があったから、今の大仏殿があります。
その時にスローガンとして掲げたのが、『一紙半銭』
一枚の紙、半分の銭のように取るに足らないものであってもいい。寄付をしてほしいという意味です。
日々の暮らしにもこと欠く庶民たちに、そんな暮らしの中のわずかなものでいいから、大仏さんに支援をしてほしい。それが御縁を結ぶことになるのだと説いて回ったのです。
これは大仏さんをお作りになった聖武天皇が「一本の草、一握りの土でも持ち寄って大仏さんを共に作ってほしい」と願ったことを受けて、鎌倉期の重源上人が『尺布寸鉄』~端切れや一本の釘でもいいから、一緒に復興に協力してほしい~と掲げたことに寄り添っています。
この努力が実を結んで、1691年、大仏さんの修理が完成します。
1692年に大仏開眼供養会が行われました。
さあ、次は大仏殿です。
本来なら 奈良に帰れないはずが・・・
この時、奈良ゆかりの護持院 隆光という僧侶のはからいがあって、時の将軍の母・桂昌院に会うことできました。
そのおかげで幕府からの援助を引き出すことに成功します。
しかし大仏殿の修理も莫大な費用がかかり、当初は鎌倉時代と同規模の建物を建立する予定でしたが、あまりにも高額だったので、サイズの縮小を「願い出る」形で変更したという逸話が残っています。
それでも大仏殿は、日本最大の木造建築として現在も残っています。
大仏殿の上棟まで見守った公慶上人は、幕府への御礼言上のために江戸へ向かいますが、病に倒れます。
そして江戸の地で死去しました。
公慶上人は、大仏殿の復興を見届けることなくこの世を去ったのです。
江戸で死んだ人は江戸で葬ることになっており、公慶上人もそうなるはずだったのですが、長年の功績が認められ遺骸は奈良に帰ること許されました。
現在、奈良市にある『五劫院』さんというお寺に、公慶上人のお墓が残されています。
このお墓を建てたのは、公慶上人のお弟子さんで、公盛さんというかたです。公盛さんのお墓もすぐそばにあります。公盛さんは、公慶上人の跡を継いで復興をすすめた人でもあります。
奈良には欠かせない人物が沢山いますが、そのひとりが公慶上人です。
イラストはrmiaさんのものを拝借しました。ありがとうございました。