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[エッセイ09]まくり考①
ども、ならなすおです。
今回は、エッセイというか、雑な論説というか、個人の考えをざざっと書いてみました。
幼児教育・義務教育の重要性について。
もとより、私は教育分野の専門家ではないので、専門家の皆さんの専門的な議論に参加するつもりはありませんし、深く聞かれてもわかりません。
深い見識をお持ちの皆さんは、本稿など読まれない事をお勧めします。
多分時間のムダです。
ただ、私個人として、自分の生き方に大きく関係していると思われるジャンルの話なので、少しだけ専門的な考察を覗いてみました。
大きく理解が不足しているかと思いますが、ご容赦願います。
まず、本稿で使う「まくり」という言葉の意味だけ、示しておきたいと思います。
本稿では、「不遇な、あるいは金銭的に困窮した状態から転じて、自己の夢を実現できていたり、裕福だったり、社会的地位を得ているような状態になること」を「まくり」と呼びます。
アメリカン・ドリームを少しおとなしく、地味目にしてもらったような姿をイメージしていただければと思います。
早速ですが、本編、初めていきたいと思います。
(1)職業人として私がやりたいこと
二極化が進む社会の中で、私が中小企業支援や企業支援に取り組んでいるのは、「下層から上層へのステップアップを果たす事例をたくさん作りたい」からです。
つまり「まくり」です。
最初は小さかった事業や夢を、大きく育てていき、開花させる喜びは、何物にも代えがたいです。
私は一つでも多くの「まくり」を応援したくて、今の仕事をしています。
(2)平等とは?
さて、「まくり」を考える上では、「そもそも、初期値から差が存在する」ことを認めなくてはなりません。
国籍、経済、境遇、才能、外見などの差異は、初めから、厳然と存在しています。
生得的な、あるいは後天的な障がい、天災被害、自分以外の関係者(親など)の抱える問題などは、個人の頑張りなどとは一切関係なく、存在、発生します。
世の中、はなから不平等です。
そんな世の中で、「平等」と呼べるものは何か?
本稿で「平等」とは、「現状がイコール」ということではなく、機会の平等、つまり「各種格差の変更を試みることが可能な状況」とします。
世に言う「親ガチャ」「才能ガチャ」に恵まれなかったとしたら、その他の状況が望ましいものでなかったとしたら、その時点で、「詰み」なのでしょうか?
私は、そんな世界だと、子ども達に言いたくありません。
社会のどこかに、「平等」を担保する仕組みが存在していて欲しいです。
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(AIで生成)
(3)平等の実現に一役買う装置
私の個人的な意見ですが、「平等」に一役買うのは、「教育」なのではないかと考えています。
特に、現代日本では、幼児教育・保育と、義務教育。
運動の才能が凄いスポーツ選手や、幼少期からめっちゃケンカの強かったボクサー、容姿に恵まれた芸能人などのサクセスストーリーは、多分発生確率が低くて他の人がマネできません。
そういった確率の低いケースを除いて考えると、経済状況や社会的地位の変更が起きうる主要な場所の一つが、「教育」であるように思うんです。
それらを選んだ理由は、誰もが享受できること。
「逆転のフィールドに乗ることすらできない」というのは、辛すぎる状況です。
その教育を経て、成績が良かったら、奨学金等の制度を活用して、いい高校、大学に行けるかも知れない。
そして医師や弁護士になったり、起業して成功したり、一流企業で活躍したりできるかも知れない。
そうしたら、家が貧乏だった人もお金持ちになれたりするかも知れない。
これは、一つの可能性の話です。
「成績が悪かったら詰み」とか、全く思ってないです。
悪しからず。
幼児教育・保育が重要だな、と思った私は、1年弱、保育園に勤務していました。
保育の専門知識等はなく、副園長という立場で。
その結果は、、、当たり前ですが、保育者として全く使い物になりませんでした。
実際やってみて、「自分には無理だ」と思いました。
あえなく退職。
それくらい、現場で活躍している保育士さん、スタッフさんの意識とレベルは高かった。
その優秀な現場に、新たな業務的負荷を大きくかけることなく、「平等を担保するフィールド」としての役割を、厳しい状況にある子どもたちに使いやすいような形で整えてほしい。
というか、現場では既にやっていただいていることなので、むしろ社会に、その重要性を再認識・再評価して欲しい。
幼児教育・保育と義務教育が持つ、「生来家庭的に困難だったり、経済的に困難だったりしても、また親御さんがあんまり構ってくれなかったり、DV傾向だったりしたとしても、他の子ども達と変わらず擁護と教育が受けられる」機能。
子どもがその初期値の不利に屈せず成長して、経済的・社会的に自分なりの好転を目指すための場。
これ以上の「平等を担保する場」があるでしょうか?
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凄く和風、というかアジア風になっちゃいました
(AIで生成)
(4)ホントのとこ、どうなの?
でも、「それってさー、理想論じゃね?」というご意見があると思います。
ごもっとも。
「金持ちの子は塾に行けるし、親が頭良かったら勉強教えてもらえるし、状況変わんないんじゃね?」
確かに、おっしゃる通り。
その辺の、「初期条件と、実際の状態」って、曖昧ですよね。
データがないかなぁ、、、
そこら辺について、文部科学省さんが実施した調査研究がありました。
令和4年度「学力調査を活用した専門的な課題分析に関する調査研究」の一連の論文。
特にお茶の水女子大学さんの「保護者に対する調査の結果を活用した効果的な学校等の取組やコロナ禍における児童生徒の学習環境に関する調査研究」という論文はめっちゃ興味深いです。
[文部科学省 全国学力調査の追加分析報告書]
長くなりましたので、本稿はここで中断させていただき、同調査研究については、続編「まくり考②」で触れていきたいと思います。
ご覧いただき、ありがとうございました。