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よしもとばなな『デッドエンドの思い出』を読んで

私がよしもとばななさんの本を手にしたきっかけは、本を滅多に読まない母が、「よしもとばななの『キッチン』なら大学生のとき読んだ」と言ったことです。

あの母でも読んだなんて、さぞ面白いのだろうと、まずは『キッチン』を読み、案の定、よしもとばななさんの世界観にハマった私が二冊目に選んだのが、この『デッドエンドの思い出』でした。

表紙いっぱいのイチョウの黄色が綺麗だったので、選んだのでした。

本作は『幽霊の家』『おかあさーん!』『あったかくなんかない』『ともちゃんの幸せ』『デッドエンドの思い出』の5つの短篇からなっています。

あらすじ

「幸せってどういう感じなの?」婚約者に手ひどく裏切られた私は、子供のころ虐待を受けたと騒がれ、今は「袋小路」という飲食店で雇われ店長をしている西山君に、ふと、尋ねた……(表題作)。つらくて、どれほど切なくても、幸せはふいに訪れる。かけがえのない祝福の瞬間を鮮やかに描き、心の中の宝物を蘇らせてくれる珠玉の短篇集。

どんなに苦しくても、生きてゆく、ということ

5つの短篇、すべてを通して、生きてゆくということについて深く思いを巡らせるきっかけとなりました。

身を引き裂くような、辛くて、切なくて、もうこれから先どうやって生きていったらいいのかわからなくなってしまうような感情。

これまで自分はどうやって生きてきたのかも分からなくなるような状態、私も、たった26年間の人生の中でも、何度も陥ってきました。

それでも乗り越えて、生きてゆかねばならないという、容赦のない現実。

この世に生を受けたからには、人は、生きてゆくのです。

どうにかこうにか折り合いをつけて、死にそうになりながら、それでも生きてゆくのです。

人生には、そのときそのときで、乗り越えるのもギリギリの、あぁ、もうこれは辛すぎる、と投げ出したくなる試練が訪れます。

それは、幼稚園児なら、お遊戯会でお姫様の役がゲットできず、脇役の、しかもピンクじゃなくてブルーの衣装になってしまった子どもなりの悔しい思いだったり、

小学生なら、かけ算九九が覚えられなくてズル休みした無力感と、周りに劣るどんどん自分を嫌いになってゆく感情だったり、

中学生なら、クラスの男の子たちに無視されて、登校すると椅子の上がチョークで汚されていて、涙を堪えた朝だったり、

高校生なら、足が遅いのに強豪校の陸上部の部長になって、いたたまれない日々を過ごす情けなさと拭いきれない劣等感だったり、

大学生なら、この人しかいないと思っていた相手からこっぴどく振られて、どんな場所に行ってもなにをしていても彼を思い出して、もうダメだと死んでしまいたくなるような気持ちだったり、

社会に出たら、思いの外仕事ができない自分を目の当たりにしたり、世の中の理不尽に直面して歯を食いしばったり、

若い女の子だからという理由だけで誘われた飲み会がどれだけ自分を不快にするものなのか知ったり、

母親になれば、大切な我が子がこれからいっしょうけんめいに生きてゆく世界が、こんなにも危険に溢れていて不安定なものだということに絶望を覚えたり、

こうやって、歳を重ねれば歳を重ねるだけ、生きてゆくことの辛さがのしかかってくるのです。

え?

これは誰の経験なのかって?

ある26歳の女性が、平凡な人生の中で直面した、生きるのが嫌になるほどの試練のほんの一部だそうです。

それでも、人は、もがきながら生きてゆくんですね。

母になる彼女は、どんな想いでこれを書いたのか

あとがきを読み、驚きました。

作者のよしもとばななさんは、出産を1ヶ月前に控えた大きなお腹でこの本を書いたというのです。

このあとがきにご本人が、『多分、出産をひかえて、過去のつらったことを全部あわてて清算しようとしたのではないか? と思われる(人ごとのように分析すると)。』と、綴っておられます。

よしもとばななさんご自身が、これまでの人生で経験してきたありとあらゆる感情を総動員して、生まれてくる我が子がこれから歩む人生へ想いを馳せていたのではないのかと、勝手ながら想像してしまいました。

我が子は、かわいい、大切な存在ですが、独立した一人の人間です。

親だからといって闇雲に干渉するものではありません。

生まれてきた瞬間から、我が息子は、彼の人生を歩みはじめているのです。

親が手助けできるのはせいぜいおむつ替えやごはんの補助、お風呂など、身の回りのお世話だけ。

彼が幼稚園なり保育園なり、いや、もしくはそれよりも早く、公園遊びで他の子どもと交流するなどの社会生活に足を踏み入れたら、そこはもう彼の領域なのです。

保護者として、できることはなんでもしてあげたいし、いつでも味方になってあげるつもりだけれど、

たとえば彼が受験に失敗したり、恋に敗れたり、そういう、いわゆる「挫折」をしたとき、私にできることはただ見守ることだけ。

そっと温かいごはんとお風呂を準備したり、いつも通り接したり、その程度のことしかしてあげられません。

ありきたりな表現をすれば、人生は茨の道。

だけど私は、疲労の沼のような日々の中でふと息子がニッコリと笑いかけてくれれば、ギュッと抱きしめ返してくれれば、あぁ頑張って良かった、と思ったりするのです。

息子がこれからいろんな景色を(物理的にも、心情的にも)見ながら、心身共に健やかに、大きくなってくれることを祈ります。

そして私自身も、これからもっと多くの切なさや苦しさにぶつかりながら、どうにかこうにか、生きてゆこうと思ったのでした。

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