私の履歴書 #自己紹介
こんにちは。広島出身、宮地尚貴(みやちなおたか)です。
もう社会人5年目ってなんだか焦りと余裕が入り混じった状態です。
今回は、改めて自分自身の価値観とか、どんなふうに生きてきたっけっていうのを棚卸したいという目的で書きます。(ちょっと読みにくいかも)
長ったらしくなりそうですが、ちょっとでも読んでもらえたら嬉しいですし、コロナで暇を持て余している方の消閑になればと思います。
目次
□幼少期 #超絶泣き虫
□小学生時代 #恋多き少年サッカーに出会う
□サッカーがマジで嫌いだった小学校5年~中学校1年
□中学校時代 #ゴールデンエイジ
□高校時代 #人生を変えた3年間
□大学時代 #始まった挑戦 #人生の岐路
□そして社会人へ、これから
□幼少期 ** #超絶泣き虫 **
僕は、世界遺産で有名な厳島神社がある広島県で生まれ育ちました。
広島駅から車で20分くらいの広島市東区ってとこです。
当時から活発で口だけはいっちょ前な半面、超絶泣き虫という・・・
泣き虫エピソードは、
僕は保育園に通っていたのですが、いつも母に送ってもらったときに
「行きたくない゛~~~~!」
「絶対行かん!!!」
って理由は覚えていないですが、謎の反抗と、大泣きをを毎日毎日してました。
家でも父に怒られまくりで家から出されて大泣き
って言うのが日常茶飯事。
ただ、どこか鍵は開いてないかと、包囲網を潜り抜けて気づいたら家にいるというずる賢い性格でした(笑)
保育園の年長になった僕といえば、とにかく保育園では目立ちたがり屋で
目立ちたがり屋なのに、目立ちきれない、1番の人に埋もれる。
アニメでいう、スネ夫キャラに近い感じだったかもです。
足も速くてそこそこいい感じだと思ってたのにって、
僕はスネ夫感に劣等感をなんとなく抱いていました。
スネ夫ごめん、でもこのスネ夫感が後へとつながります。
□小学生時代 ** #恋多き少年サッカーに出会う **
小学生になったとき、僕は、保育園の友達とは家が遠かった関係で
みんなとは違う学校へ行きました。
誰も友達がいない中、どうしよう。。って運動場で途方に暮れていた僕は、目の前で遊具を体験している3人組を見て「いいな~。」ってうらやましく見つめます。
今でも驚きなのが、気づいたら僕はその日にグループに混ざってました。
「混ぜてよ!」「いいで!いくぞ!」このやりとりで僕の不安が希望に変わったを覚えています。
今思えば、とにかく飛び込んでみるやってみるみたいな精神って
幼少期からあったんだなって思います。
僕は小学校から大学まで、いや、今もかもですが、恋多き人です。(笑)
とにかくめちゃめちゃ好きな人がいました。シンプル女ったらしですね
一番目に好きな人は~で、2番目に好きな人は~みたいに
お前が順位つけんな!って感じですよね(笑)
今でも不純だな~と思うのが、僕の人生を彩ってくれたサッカーに出会ったきっかけも恋でした。
小5の春。学校の前の桜坂が少し緑がかっていた頃、僕は恋をしてました。
ちょっと背が高くて、声がかわいい、ポニーテールの女の子です。
どうにかこの子に近づきたいと思ってた時、
どうやらその子は学校のサッカーチームに入っているようでした。
丁度、体操教室をやめてソフトボールも続かず、テニスもやめようと思って時に
丁度良いなと思った浅はかな僕は
母に「サッカーやる俺!」って自信満々に言ったのを覚えています。
ただ、同年代はソフトボールをやっている子ばかりで、サッカーの肩身はめちゃめちゃ狭かったです。昼休憩は、手打ち野球(柔らかいボールを手で打つ野球)でばかり遊ぶ感じでした。しかもソフト部は市で優勝するくらい強豪チーム。
一方で、僕の入ったサッカーチームは当時、6年生が2人、5年生が僕を入れて3人と人数も少なく4年生中心の弱小でした。
その一つ上の世代までは区大会5連覇と結構な強豪だったようですが、
なんとも言えない感じでした。
□サッカーがマジで嫌いだった小学校5年~中学校1年
チームが弱く、運動神経が良かった僕は、サッカーを始めて3ヶ月くらいでスタメンになりました。(ド下手なのに)
でも、全然技術は上達しないし、運動神経だけで戦ってた僕はサッカーの楽しさを感じることが出来ませんでした。
何より悲劇だったのが、最高学年の小6でチームの投票でキャプテンに任命されたんです。
え、キャプテンっていいじゃん!?
そう思うかもしれないですが、
・サッカー歴が浅い
・後輩と仲が良くて結構な忖度で決まった
・もう一人のキャプテン候補がガキ大将だった
こんな中で決まるの嫌じゃないですか?
実際キャプテン候補の反発はやばかったです。
いや、でもたしかにその子よりは俺の方がいいっしょって
内心では思ってましたがとても言えず、無茶苦茶な小6を過ごしました。
なってったって恐らく唯一キャプテンは荷が重いって泣きながら監督に言って、やっと軌道に乗った12月くらいにキャプテンを解任されて後輩に引き継ぐ経験をしました。
今となってはキャプテンをした経験は生きたなと思いますが、
スネ夫感のあった僕にキャプテンはむずいの?せいぜい副キャプテンがお似合いだなってひどく落ち込みました。
それでも、後輩からは宮地君がキャプテンでよかった!
宮地君のおかげでサッカーが楽しくなった言ってもらえたことで、
中学もサッカーやるか!って単純な僕はサッカーを続けます。
小学校でなんだかんだトレセン(選抜)に入ってた僕は中学校でクラブチームに入りました。
ただ、謎に下手だったのもあり最下層のカテゴリーでスタートします。もう練習も混ぜてもらえず、4人でひたすら基礎練習をするみたいなとこ。
でもここからスネ夫の逆転劇が起きます。
□中学校時代 ** #ゴールデンエイジ **
練習にも混ぜてもらえない悲惨なスタートダッシュをきった僕ですが、
センスがようやく開花しました。
当時、まだサッカーに楽しさを見出せなったものの、
練習にも混ざれない恥ずかしさ、
早くみんなと肩を並べたいという想いで、必死に練習をしました。
この時、僕は練習すればするだけ上手くなる状態だったことに気づきます。
サッカーのゴールデンエイジ(一番成長する時期)って小3から中1なんです。
小学校時代、もっと練習すればよかったって思いましたが、
当時の勢いはほんと凄いもので、
中1の夏にTOPチームに入ります。(60人くらいいるチームで)
最下層からここまで来れるの?ってくらい自分でも驚きました。
そして、サッカーに楽しさを見出したのもこの時。
この時感じたのは
・絶対やるって言う決意が僕を変えるエンジン
・成功体験が自信をもたらす
ここから僕は本当にチームの中心で駆け抜けます。
サッカーが上手くいくと全てが上手くいって
高校受験も受かりました。県内でも倍率が高い
サッカーも県でベスト4だった高陽東高校に入学します。
□高校時代 ** #人生を変えた3年間 **
高校時代は僕の人生を変えたと同時にありきたりですが、一番の青春時代でした。
高校1年からTOPで試合に出てたわけじゃないけど同年代の中でも
点を取ってほうで、3年が引退したら間違いなく、TOPチームで偉そうにしてるんだろうなって思ってました。
しかし、そう順風満帆にもいかないのが僕の人生です。
高1の冬。新人戦2回戦を前にした僕たちは、定番のメンバー発表を待ちます。
メンバーに入るのは18人、いつもそこそこ安定して入っていた僕は、今回も仲間と話しながら今回は誰が切り込んでくるかな~なんて余裕ぶっこいてました。
悲劇到来
なんとメンバー落ちです。メンバー落ちくらいなんてことないでしょって思う方もいるかもしれませんが、これがもう当時の僕にはめちゃくちゃ堪えました。
しかも、理由は調子乗っているから。
確かに、生意気な口きいてたし、調子乗ってましたけど
「は!ふざけんなよ!」もう僕は頭がパニックです。
・そんな上手くないのに、メンバーに入るという慢心、驕り
・直前まで余裕をぶっこいてた恥ずかしさ
・高校に入ってから余裕ぶっこきすぎて自主練習もろくにせず、
恋多き僕は青春を謳歌しすぎていた
などなど、いろんな理由や、感情がうずめいて部室で3時間大泣きです。
今までなんとなくサッカーやって、そこそこ上手くいったし、サッカー選手になれたらかっこいいな俺には無理だけどくらいな気持ちで、正直全てにおいて中途半端だったなと感じた僕はここから変わりました。
毎朝5時起き 6時から自主練
毎晩練習後も学校が閉まるまで自主練
という鬼のような生活を過ごすことを決意しました。
ここから僕の人生はサッカー人生を終えるまでサッカー一色に染まります。
(だから正直、学校の生活も波瀾万丈だったので書きたいのですが、サッカーがこの自己紹介も結局メインになります。)
とにかく、今の自分を強引にでも変えたい。
新しい自分に生まれ変わるという確固たる決意で、卒業までこの生活続けました。
強豪校はチームで強制されてこの生活を送っているチームはあると思いますが、自主的に毎日ここまでやったのは日本探しても、いや世界探しても数えるくらいしかいないだろうと、今では大きな自信を持ってます。
結果的に僕は学校の誰もが(先生も、生徒も)認める「努力家」として
比喩されます。
最初は、朝練をしていると「え、なんしてるん?」「何があったん?」って言われるくらい周囲からも衝撃だったみたいです(どんな印象や!)
得た成果としては、
・陸上部をはねのけて、マラソン大会優勝
・チームに朝練の文化を創る
っていう文化づくりや周囲を巻き込むことが出来ました。
この目の前の事にとにかく全力を尽くした経験が、僕に夢を与えます。
「もっと俺は成り上がりたい、トップレベルで戦いたい」
「ほんでもってプロになるんじゃ!」
そんな感情を強く抱きました。
そして、僕は毎年プロ選手を出している大阪の桃山学院大学
(当時関西リーグ1位)に進もうと決意します。
ただ、当時学校で問題を起こしてしまった僕は推薦もなく、親にも相談できなかった。(この話はめちゃ長いので割愛)
全然勉強もしておらず推薦もなかった僕ですが、一筋の光を見つけます。
なんと、法学部のAO入試の倍率が割れている!0.9倍
これはきた!って思いました。もうこの道しかねえって感じです。
親には実は、広島の大学に適当に行くくらいしか言ってなかったのですが、
急に三者懇談で打ち明けます。
「俺、桃山学院大学に行く!」
先生と母は「は?どこ?」みたいな感じです。
そりゃそうですよね、ほんと当時はどうしようもない親不孝者です。
しかし、快く送り出してくれた両親と背中を押してくれた先生には今でも
計り知れないくらいの感謝をしてます。
□大学時代 ** #始まった挑戦 ** ** #人生の岐路 **
高校時代から実はもう大学の挑戦始まってました。10月には合格通知を貰い、あとサッカー部に入るだけ!
なんとかして推薦組と一緒の扱いをいてもらわな、差がつくし、
もしかしたら入部もできんかも。
そんな不安があった僕は、とりあえず行動!
推薦なりすまし作戦を決行します。(あとづけ)
学校に自分で電話して何とか監督につながります。
僕「高陽東の宮地と申します!サッカー部に入部予定で、練習に行きたいのですが!」
監督「お、じゃあ2月末から合宿があるからよろしく!」
僕「はい!わかりました!(え、軽くない?まあいっか)」
どうやら推薦の選手が何人もいたみたいで、間違えられました(笑)
とにもかくにもここから僕は、はれて桃山学院大学サッカー部の一員としてスタートします。
TOPレベルでもみにもまれた3年間
本当に驚くべき程、周囲が上手かったです。
もう有名な選手ばかりだし、プロに決まってる人もいました。
こんな中でやっていけるの?不安しかありません。
高校時代に培った僕の強み「自分で切り開く力」を全力で駆使しました。
それでも、結果一つのサテライトチームのキャプテンどまり。
この時、僕は努力をするにも早いタイミングでやらなきゃダメだ。
そう深く感じました。
正直、高1から頑張ったんじゃ遅すぎました。
周りには小学校からサッカーにかけてきたやつしかいない。
そんな中で中学までなーなーで、高校からやってきた僕は全然ダメでした。
ただ、社会人(サテライト)チームのキャプテンの経験もめちゃくちゃ楽しかったです。
・TOPチーム撃破
・リーグ戦負けなし等々
正直一番良いチームだったなって思いますし、僕らの代はこのチームに4人しかいなかったけどここでも後輩が支えてくれました。
そして僕はサッカーを辞めます。
サッカーは好きだし、今でも関わりたいけどって感じるけど
第2の人生を歩むことを決めました。
□そして社会人へ、これから
僕は、社会人として東京でキャリアをスタートさせました。
それが今の会社でもある、セールスの学校です。
僕はサッカーを通じてほんとに数えきれないほどの経験をし、数え切らないほど学びました。
・何をやるにも初めから意志を持って全力でスタートダッシュきらないと
遅すぎたってなる。(後悔が生まれる)
・努力や情熱は周囲に伝染する。
・いつでも自分の道を切り開くのは自分だ
これだは押さえていこうと思って社会人生活を送ってます。
結果的に1年目は営業TOPの成績を残せたりと良いスタートダッシュを切ることが出来ました。
ただ、ここでもいろんな挫折や、苦悩が待ち受けていました。
さて、ここからのエピソードは丁度先日書きましたので、
良かったら下記から見てみてください。
僕は今でもサッカー小僧です。(サッカーやってませんが)
だって今の自分を形成てくれたのがサッカーだから。
これからもサッカーマインドを忘れず、ベンチャーにいると陥りがちな
井の中の蛙だけにはならないよう、これからもこれからも誰もが感じる努力家として歩んでいきます。
幼少期から小学校まで自分をスネ夫(2番手、3番手)だと思ってたけど、そんなのは、自分の思い込みで、みんな自分のドラマを生きてるんだなって思います。
これからも僕は僕の道を行くぞ!
(しかし長いですね。お付き合いありがとうございます。サッカー以外の番外編はまた今度!)