見出し画像

カッコ悪い私は髪を刈った


先日、国立公園の湖の麓で髪の毛をバリカンで刈った。(動画はインスタとTwitterに載ってます。よければ😂👍)

髪を刈りたかったのか、と言われればそうではない。
自分の長くて、強い髪が好きだった。自分に似合ってると思ってた。


先日「13歳になる娘に日本語を教えてほしい」と知人に言われた。
知人は末期癌で、もう治療をしていない。と共通の友達が後日教えてくれた。
家庭環境がいいと言えない、その知人はいつも笑顔で、優しくて、最高の母だった。
娘は自閉症を持っているという。
その出来事が、若くして環境的要因で「死」とこんなにも向き合わなければいけない家族が目の前にいるのが、とてもショックで、四六時中忘れることができなかった。
かわいそうだ、とさえ思った。

それと同時に、自分が彼らの人生に中途半端に関わり相手に無駄を与えてしまうかもしれないことを、自分自身が傷つくことを、恐れた。

自分には、行くところ、やるところがある。と自分に言い聞かせるように、目を背けた。



私はいつもそうだ、
戦争が起きている国で生まれ、命からがら生き抜く子供たちにかわいそうだ、と思う。
人間の欲望のためだけに生かされ殺される動物たちにかわいそうだ、と思う。
社会の波に飲まれ、価値を見失い自ら命を絶とうしてる人にかわいそうだ、と思う。
めちゃくちゃに荒らされ、使い捨てられた地球にかわいそうだ、と思う。
世界中で起きている、悲しい出来事全てに、かわいそうだ、と思う。


でも、何も行動しない。


たまに少しのお金を募金したりして「助けた」つもりになる。
自分の人生とはまた別物だと、自分に言い聞かせ、自分の人生を探しにいく。


いつの間にか、偽善者、という言葉が私の心に住み着いた。
自分の人生の何かに対して笑顔になるたびに、私が助けられなかった死にかけの子牛がこちらを睨む。

祈るような気持ちで「ー幸せのあり方ー」みたいな本を手に取るたびに、「でも生きていけない命がある中で、自分は息をしている時点で幸せなのでは?」と疑問が湧く。


だからと言って誰かの人生を変えるために、自分自身を、自分の人生を犠牲にできる強さがあるかと言われると、自信はない。余裕もない。

ロジック的には理解しているのに
「私は生きているので、そもそも幸せです!もう十分です!」と胸を張って言えない。


世界の悲しいことを見つめて、悩んで、まるで自分が悲劇のヒロインかのように振る舞う。つべこべ言って、言い訳して、そして結局は今日も自分を考える。

カッコ悪いなあ。

そう思った時に、なぜだか無性に丸刈りにしたくなった。

もちろん、その髪の毛を寄付できるから、というのも理由にあったけれど、

つべこべ言って、どっちも何もしない自分に、
そういう偽りの”綺麗な考え”でいようとする自分を捨てるために、
「カッコ悪い。」と気づかせてくれた彼女のために、


剃ったら、何かがスッキリすると思った。



髪の毛は「勝手に伸びる」と言う理由から一部の仏教では煩悩の象徴とされるらしい。
私は仏教徒ではないが、とてもしっくりきた。


「誰かのため、社会のため、貢献のため、」
綺麗なことを口では言いながら、いつだって私は自分のためだ。

でもそれでいいのかもしれない。
自分には自分の闇があり、自分には自分の苦しみがある。目に見えないからこそ、どれだけ苦しいかわかるのは自分自身。

ものすごい悲しみに立ち向かう彼らにとったら、私の人生はなんでもないのかもしれないけれど、だからといって背けるべきものでもないと思う。
何か美しくて、悲劇なものに変える必要もない。ただありのままでいよう。
「カッコ悪い」
それに気づくことが大事で、それを受け入れることが大事で、そこから何ができるかが大事なのだと思う。

カッコ悪い私は髪を刈った。でも今はそれが自分に似合っていると思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?