『常識』にこだわりすぎちゃう人は、海外暮らしでイレギュラーを経験すべし!
仕事をしていても、学校に通っていても、趣味の教室に通ったりしていても、何かの話題の拍子に『これ、常識でしょう』と言う人がたまにいる。
その都度疑問を感じるのだけど、あなたにとってはそのことが当たり前のことだったり常識なのかもしれないけど、他の誰しもにとってそれは果たしてそうなのか?と思ってしまう。
常識というか、一般的にみんながもっているであろう共通認識、というものは、海外へ行ってみると確実に違った景色となっている。
そしてそのことに最初は戸惑うが、外国人としてそこで生きる自分は、その国のそのやり方や考え方に合わせて、ある程度の歩調の取り方、合わせ方をつかんで生活していかなくてはならない。
身体に心に染み付いた『感覚』というものは、自分の習慣的思考であり、行動であり、倫理観となっていて、『常識』として表現したりするのは学校や社会などで自分以外の多くの人たちも同様の思考、行動をしていることを認知してから表現しはじめるのだ、と思う。
これが覆るのが、海外生活だ。
長年住んだ自国もしくはどこかの国でつくられた思考や行動の習慣化したものを一度崩して、また立て直す作業をすることで、より深く人が生きる在り方というものを客観視できるようになる。
その時に必要なのは、その時に生きている、もしくは住むことになった場所である国の言葉であり、習慣や考え方を知ること、歩調を合わせる必要のあることは何かを知ること。
海外で暮らすと衝撃!と思うことにたびたび出くわすが、自分の場合は嫌ではなくて新鮮に感じ、むしろそれを堪能していた。
そしてより深く、自分のそれまでの無自覚の偏見や先入観に気付かされた。
自分に対する見直し作業を強いられたし、受け入れられない自分もそこにいた。
そこから自分自身との対峙が初めて開始するのだ。
で、常識とは。
日本において、これって常識やん、とかよく言う人がいるが、それはあなたの思う常識っていうものであって、他の人にとっては必ずしもそうではないんだよん、と心の中でいつも思う。
だって、アメリカに住んでいた時に同調圧力なんてなかったから、自分の意見もノーという拒否も自由にできてた。
日本に来るとやたらと、ノーって示すとなんでなんでとしつこく問われて最後はハブられるという女子特有?の謎のイジメがある。
自分は無縁だったけど、それはたまたまそうなっただけ。そして基本的にはひとりを好む性格だったのもある。
こういう場合にこうするのは常識、みたいなことを学生時代からよく言われた。
よく聞いた。いや違うだろうと昔っから思っていたのだが、海外に住むたび、『この国の常識では女性はいつも誰かと一緒にごはんを食べていないと変だと思われる』(チュニジア)とか、『この国の常識では自分の意見を持ってないなんておかしいやつと思われる』(中国)とか、『この国の常識では多少変だな、とわかっていても思っていても黙っているのが普通、常識。』(日本)『嫌だと思うなら嫌でいい。そう言えばいい。ノーだと。詮索はしないし、あなたの自由だ。誰もその事に文句を言う筋合いはない。当たり前のことだよ。』(アメリカ)などなど。
思い返せばこんなふうに、こんなふうなスタンスで色んな国の人たちからその国の人たちのスタンスというものを聴いたり学んできたりした。
それは、そう言ってきた人たちの性格や考え方などもあるのかもしれないが、これまで生きてきておおむね、それぞれがそれぞれの国で培ってきた考え方や行動のあり方を体得してきたからこそ、自分にアドバイスくれたわけで、そこは間違いないように思う。
例えば細かい記憶で例を挙げると、バリ島での出来事。特に食事の仕方について。
出された食事を残してはいけないとしつけられて育った自分は、お腹いっぱいでも最後まで丁寧に食べ切ったところ、『貧しい人や犬やネコのことも考えて食べる量を考えなさい』と言われた。
え?
残した方がよかったの??
ヒンズー教ではそうなの??
と疑問を持ってから、それを聴いてからは必ず食事を少し残しておくようになった。バリ島では。
チュニジアでは食前や食事中に飲み物を飲まないように言われた。これも、『常識』だと。
しっかり食べて、最後に飲み物を飲むというのが正しい順番だと。
胃の消化に関係するのよ、とも。
チュニジアでは気をつけるようにしていた。
アメリカでは、ピザにパイナップルという果物が入っていることが嫌で仕方なかったが、『これがノーマルなピザのひとつよ』と言われれば、そうなんすか、、ということで食べてみたところ、美味しかった。
自分の殻を破った瞬間だった。
思い込みや囚われていた当たり前(この場合は食事に果物を入れ込むピザの存在なんて邪道だという思い込み)が崩れるのが母国を出てからできる大きな経験のひとつ、ということ。
何が言いたいかというと、あなたの常識ってやつは、あなただけが思うものであって、もしかしたら人に大きな声で言うものではないものかもしれない、ということ。
海外で暮らすことで、大きな気づきを得られること、、思い出したので書いてみた次第です。
今言われている、クリティカルシンキング。
とても大事だと思う。
その、『常識』ってやつをちょっと疑ってみる。
それだけで、思考がまた違う次元にいけて、世の中がそれまでとはちがってみえるのではないか、と。
人が人を尊重するって、きっと相手の大事なこととか、その人にとっての当たり前を尊重することなんだと思う、そのためには自分の大事なことを、自分にとっては大切なことなんだけど、相手にとっては違うかもね、という前提のもと自分の大事なことも大切にできること。らお互いに尊重し合えること。
『常識』とは、、。
うたがっちゃいましょう。
それでこそ、今よりちょっと、柔軟になれるかも。