無色透明になること
物事の本質を観るときって、無色透明になることが必要なんだと想ったんです。
無色透明と言いましたが、
それは自分を捨てた状態。
自我が無い状態。
ジャッジしない状態。
を創ること。
この世の中には、眼に観えないものは溢れてます。
その場所が、硬いのか、柔らかいのか、ゆるいのか、穏やかなのか。
その人が、喜んでるのか、悲しんでるのか、楽しんでるのか、嬉しんでるのか。
そして自分は、喜んでるのか、悲しんでるのか、楽しんでるのか、嬉しんでるのか。
人は時にして
『楽しいよ!』『嬉しいよ』
『腹が立ったんだ』
と喜怒哀楽を、コトバで表現することがあります。
でも、そのコトバの本質をその人自身もわかってないことって、意外にあると思うんです。
例えば、その人に心配させないようにというものからくる
『楽しいよ』
は、本当の楽しいじゃなく、本当は
『悲しい』のです。
きっと、コトバだけで受け取っていたらそんなことは気づけない。
あー楽しいんだ。だったら大丈夫だね!
ってなっちゃうんです。
でも逆もしかりで、
例えば、もし自分が不安まみれの状態でいた時
その人が、本当に楽しいと思っている時の
『楽しいんだ!』
をその状態の自分が受け取った時
『本当は大丈夫じゃ無いでしょ?』
ってなっちゃうことだってあるんです。
そう自分が解釈してしまったら、きっとそれからの対応が変わってくる。
『本当は楽しく無いよね! 心配だよ! 何か手伝おうか??』
心配ベースの自分は、その人を心配する方向に観てしまうことだってあるし、そうやって対応してしまうことだってある。
そうしたら、その人は本当に本当に求めてないのに、
必要以上に過干渉になられて、心配で観られている。私は、出来ない人間だからそんなに過干渉になられるんだ。
と自信を失うことだって、あるかもしれないんです。
コトバだけのそこに 〝あるモノ″ だけを観る世界から、〝ないモノ″ にジャッジしない世界に気づくことが大切。
そのためには、自分自身が無色透明になることが大切。
きっと、そうやって観た世界は、その本質を捉えてると想うし。
その本質を捉えた後に、自分の意志をもって自分なりの色をつけて行動したらいい。
それが、『本来の自分の求めている』行動で
それが、『自分を表現している』 こと
だと想うから。
そうやって観て行動する世界は、きっと
本当のスキ、キライ、
本当の嬉しい、楽しい、悲しい、切なさ。
本当の喜怒哀楽がある世界。
そうしていくことは、自分の納得する人生を選択して生きていける第一歩なんだと想います。