ふり返ると 大切な人とコーヒーの風景
コーヒー飲む?・・・
この言葉が何度私の前に登場したか、
今となっては数えきれない。
最初は父が自慢のコーヒーカップを買った日。
小学生の私にいたずら半分に聞いた時だろう。
当時、家で飲むコーヒーはインスタント。
陶器作家の名前が入った新しいカップで
コーヒーを飲みながらジャズを聴くことが
安月給のサラリーマンには、
とびきりの日常の憩いだった。
子どもの私にとっても、
ジャズやラテンの音楽と一緒に
父が持つ象牙色のコーヒーカップから
深い香りと幾すじもの湯気が漂う空間は
まるで、テレビの中の世界のようで
夢みたいに心地よかった。
初めて家で本格的なコーヒーを淹れる生活に
出会ったのは、社会人になって訪ねた
職場の先輩女史の自宅だった。
新入社員の私が借りた木造アパートの部屋は、
若い女性の部屋とは思えぬ殺伐さ。
音楽聴いて書き物が出来ればいいと、
コタツとラジカセ、ウォークマンと
小さな冷蔵庫がある程度。
洒落っけがないにもほどがあると、
彼女はよく、
自分のマンションに私を招いて
食事を作ってくれた。
そして食後、彼女は必ず、
サイフォンでコーヒーを淹れた。
彼女がサイフォンの準備をし、
コーヒー豆をミルで挽き、
アルコールランプに火を灯す。
そんな一連を見るのが楽しくて
無言で観察する私。
やってみる?と
ある時、彼女が声をかけてくれた。
一度トライしたが、
彼女の淹れるコーヒーの味には敵わない、と
二度と自分ではやらなかった。
そのかわりに私は、
手土産にコーヒー豆を持参した。
自分の安アパートでは、
お湯を沸かすのも嫌なくせに、
コーヒー豆を買う私は、
優雅な暮らしをしております、
という雰囲気を漂わせることに満足しながら
お店で豆の相談をした。
今はあまり見なくなったが、
サイフォンのお湯を沸かすランプの炎、
沸いた湯がガラスのロートの中で、
コーヒー豆を徐々に大きく膨らませて
ゆっくり落ち着く様を思い出すと、
ドリップ式にはない、
不思議な仕掛けを楽しむ
ワクワクした待ち時間が蘇る。
それから随分経ったある時期、
私は男性と暮らしていた。
それは私の人生で一番、
コーヒーに凝った時代。
彼はお酒を呑む人だったが、
私は呑まないから
ふたりは一緒に、
コーヒーにちょっとだけ凝ったのだ。
美味しい豆を数種類用意したり、
ドリップの練習をして、飲み比べたり。
そして、ここでもやはり、
彼の淹れるコーヒーの方が
香りも味わいも私より上だった。
ある日、いつもコーヒー豆を買う店の主人が、
ダッチコーヒーを試してはと言った。
私たちは早速、
ダッチコーヒーの器具一式を購入した。
それはサイフォンよりも、
ずっと大きな仕掛けになった。
豆も当然ダッチコーヒー用である。
ダッチコーヒーとは、水出しコーヒー。
難しい技術は必要ではなく、
美味しい水と豆を用意し、
決めた分量を寝る前に器具にセットする。
そして水の滴り加減を調節する。
その滴る水の調整で、
抽出されるコーヒーの味が決まるが、
それも慣れてくると、
そんなに難しいことではなくなる。
豆と水の量をきっちり計れば、
次の日に軽くて芳香なコーヒーが出来ている。
あとは、その都度、飲む量だけを、
沸騰させないように温める。
ドリップコーヒーとは全く種類の異なる
軽やかな花のような香りと美味しさがある。
こうして作るダッチコーヒーも
セットするのは彼だった。
大きな器具で、
喫茶店でも使用されているものだったから
それを見るだけで、
随分贅沢な部屋に見えたものだ。
そして今、私は、
自分でドリップしたコーヒーを飲んでいる。
笑えてくるのだが、
私の淹れるコーヒーは、
最初の一口はそこそこ美味しいこともあるが
結局ばらつく、時の運。
おみくじみたいだ。
それでも結局コーヒーメーカーは使わず
今でも日に何回かコーヒーを淹れる。
その度、私を幸せにしてくれるものが
コーヒーには宿っている。
豆を挽く音、粉から飛び込んでくる香り、
豆を保管する容器の感触、
お湯が沸騰するケトルの音、
湯気、膨らむコーヒーの粉…
そんなすべての瞬間に、
登場する顔がある。
コーヒーは、これからもずっと
私の手元で時を漂わせながら
物語を起こしていく気がする。
この暮らしはきっとずっと、
やめられそうにないな。