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娘が不登校になったけれど、ハッピーに生きているよ!という話

自分の娘がまさか不登校になるなんて!!本当はそう思うのかもしれない。というか、思うべきなのかもしれない。しかし娘が「絶対に学校には行きたくない」と言い出した日、単純に、とうとうその日が来たか、と思った。予感していた事が的中した。

娘が学区内の公立小学校に行った期間は役2ヶ月半。小学校初めての夏休みに入る前には、娘は行かなくなっていた。

何となくだが不登校児童のいる家庭は、暗くて泥沼化した地面となったトンネルの中を歩いているような、そんな状態の方たちばかりなのではないかと思っていたし、そのような状況では自分もそうなるのではないかと思った。しかし、私達家族は暗くなるどころか、毎日笑って過ごしている方だと思う。不登校になって1年ほど経ったが、それは今も変わらず、むしろ笑顔や楽しい事は増えていっているような気がする。

そんな私達家族の不登校との向き合い方のお話です。

娘が不登校になった一番の理由は「集団行動が苦手」である。朝は眠かろうが、不機嫌だろうが、気が向かなかろうが決まった時間に学校に到着しなければならないし、決まった時間までに机に付かなければならないし、先生が提示する教科を苦手だろうが嫌いだろうがやらなければならない。当たり前のことだが、娘は気が向かなければとことんできないタイプだった。どんなに学校に行かなければいけない理由を説明しようが、怒ろうが、怒鳴ろうが、逆に抱きしめて、行きたくないよね大変だよね、と声かけし、認めてあげた上で一緒に行こうと誘っても、娘は最終的に行けなくなった。学校へ行きたくないと言い出した時には体験談なり本なりネットなりで調べ、そこに記してある対処法を一つ一つ書き出して、順番にやった。やり尽くしたと思う。それでも娘は行けなくなった。

登校初日、早速担任の先生から電話がかかってきた。「教室を逃げ出そうとするので、授業中は座っているようお話ししていただけませんか。」

次の日、座っていようね、困ったら先生に相談するんだよ、と言って送り出した。娘は頑張ったようで先生から、「きちんとお椅子に座って頑張っていました。」と電話で報告をいただいた。

しかし、それも長くは続かず、次の週には授業中にハイハイで教室中を這い回ったり、立ち上がったり、教室から脱走しようとしていたとのことだった。担任の先生はほぼ毎日のように電話をしてその様子を伝えた。

娘のストレス度合いは日に日に上がっていたようで3周目頃からは度々思いもよらぬ行動に出るようになった。

例えば、時折ランドセルの中からビリビリに敗れたプリントが出てくることがあった。何があったのか聞くと「口に突っ込んで食べようとした。そうすればプリントをやらなくてもいいから」と言う。
またある時は筆箱を開けると鉛筆に無数の歯形がついており、外側の塗装がほとんど剥がれ落ちていることもあった。ひどい時は2〜3センチ短くなっていることもあった、しかもお尻側。(食べたんでしょうね・・・。)

逃げ回らないように授業中に先生が娘の手を繋ぎ、片手が埋まったまま黒板に板書した日も何度もあったそうだ。

娘は、予期せぬことが起きると、一層ストレスに感じるようで、防災訓練を実施したときには頑なに教室を出ることを拒んだ。「本当に火事が起こっているわけじゃないから逃げなくてもいいもん。本当の火事になったら、私は足が早いから一番に逃げられるもん。」と言い、大層に担任を困らせた時があった。

娘は給食も非常に苦手であった。食材が混ざった食事は基本的に食べられないのだが、食材が混ざっていない料理などほとんどないのが現状だ。給食初日からトップ3にも入る苦手料理、カレーが出てきてしまったものだから、食育なんて言っている場合ではなかった。毎日、ほとんど白米しか食べなかったようである。

忘れもしない6月中旬、Xデー。学校からの帰りが遅いので一緒に住んでいるおばあちゃんが見に言ってくれることになった。家からはほぼ一本道で学校にたどり着けるのに、その道中のどこにもいないと言うことでおばあちゃんから焦った口調で電話がきた。
「どこにもいないのよ。どうしよう。」
しかしそのすぐ後にゲートに立っていた職員の方の声が電話の向こう側から、「多分学校からまだ出てきていないと思いますよ。」と聞こえた。
お礼を言い、また後でかけるね、と母は電話を切った。

40分後くらいに、おばあちゃんに手を引かれて帰ってきた娘はニコニコしていた。しかしおばあちゃんは呆れ顔。何があったかを聞くと、本人は「何でもな〜い。」と、教えてくれないので、おばあちゃんがため息混じりにいった。
「牛乳を机にぶちまけて、おまけにそれをなめとって飲もうとしたらしいのよ。自分はユニコーンだからパックなんかからは飲まないんだ、とか何とか言って。それで机の中にまで牛乳が入っちゃって教科書とかお道具とかプリントとかが全部びしょびしょ・・・。」
うっひゃあ・・・。もう、悲しいやら、心配心やら、はたまた笑い飛ばすべきなのか、いろんな感情がブワッと湧き出た。こんな状況の中娘が笑っていたのも、一種の防衛本能なのだろう。

ここで怒ったら娘は余計に学校へは行きたくなくなるだろうと思った。そんなことをするユニコーンはどこのドイツじゃ!と冗談めかしに言いながら娘の脇腹をくすぐった。

そして次の日の朝、昨日のことは怒らず、サクッと切り替えて、ママも一緒に行くから学校へ行こうと言ったものの、娘はその日を境に絶対に学校には行かないと言った。
それまでのダメ元漂う感じの「行きたくない」とは全く違った。これには流石に強い不安を感じた。これからどうしよう・・・。

その日はお休みさせることにして、朝一杯はどうしたら学校へ行けそうか、どうしたら怖いものや嫌なものを取り除けるかを話し合った。しかし話した約3時間も虚しく彼女が、学校を頑張ってみるという方向に話が進むことはなかった。とうとう私も折れてしまい、じゃあと言うことで家で勉強させることにした。一度折れたら彼女は二度と勉強しなくなるのではないかと思った。しかし、教科書を開いてみると娘は嫌な顔せずに勉強を進んでやった。一度ドリルを開くと2〜3時間集中してやる事もしばしば。

そこで気がついたのが、学校という場所そのものが彼女にとって、とにかく辛い場所だったのであり、勉強自体が嫌いというわけではなかったらしいと。

子供達が小さな教室にぎゅうぎゅうにいる事が、ものすごく圧に感じる事。学校内で反響する子供達の声に刺すような感覚を覚える事。
なぜ大人が決めた勉強を、やりたくもないのに、やらなければいけないのかがとことん理解できない事。
これらがとてつもないストレスを与えていたようであった。

そこからは家での学習とフリースクールに通いながら、彼女は彼女のペースで毎日頑張っている。

フリースクールの出会いは本当に大きかった。自分のペースで学べるというだけでもとてもストレス軽減につながるようだ。算数が好きなようで、ちょっとした計算ならば母の私よりも早く解けるのではないかと思うくらいにまでなった。

その他にもサイエンスには特段に強い興味を示しており、毎日のようにサイエンスクエスチョンを聞かれる。これがまたどの質問も難しくて、母は常にあたふたなのである。
なんで人間は死ぬの?何で歳を取るの?何で食べ物がないと死んじゃうの?何で恐竜は絶滅したの?隕石が地球に当たった?!どうして?なんで今は隕石は降って来ないの?それとも降ってくるの??降ってきたらどうやって人間は逃げるの生き延びるの?????
・・・そ、そんな確信をつくような答えは持っていないのよ!!!

しかし、それらの質問のおかげで彼女には夢ができた。将来は不老不死の薬、若返りの薬を作るサイエンティストになるのだと。

今ではプリントを口に突っ込んだりと言った行動も見られなくなった。合っている環境を見つける事、安心していられる人たちに巡り会える事は本当に大切なことなのだなと思う。

彼女が楽しそうに過ごしている中で笑っているから、きっと私達家族も笑っていられるのだと思う。

学校に行かないと言われた時、確かに不安は感じたけれど、人生進んでいれば何とかなるものだ。そして居場所もきっと見つけられる。学校以外の道もあるとは、こういう事なのかと。私もあまり深刻に考えすぎないようにしている。それは彼女と向き合うことをやめたと言っている訳ではなく、世間で不登校がネガティブに捉えられていようが何だろうが気にせずに、娘にとっての最良の選択は何かを死ぬ気で悩みながら選んでいくのみなのだ。

世の不登校になった子供達のバックグラウンドは皆違うだろうし、中にはあまりにもツラい理由でいけない子も沢山いると思う。笑えない方もたくさんいる。でも、この地球上には80億人もいるのだ。小さなコミュニティに留まろうとせずに、全力で飛び去って新しい人たちと出会い、新しい場所を見つけて欲しいなと思う。合わないところに居続ける努力よりも、合うところを探す努力をする方が、大事だと思う。80億人の中で気の合う人や場所が1つや2つと言わずに、ゴマンとあるはずだから。

そんな娘は先日、自閉スペクトラムとADHDの診断が出た。こんなのは序の口で、これからもっと大変なこともあるだろう。いや、大変なことだらけなのは言うまでもない。でも、そこもひっくるめ、どんな状況でも笑っていられるたくましさはどうやったら身につくのかを全力で、子供と一緒に研究していく所存なのだ。

大丈夫。諦めさえしなければ、何とかなるのがこの世の中なのだ。

スマ〜イル!!

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