見出し画像

学校は人間を育てるところか?(その六)~ 自分の価値が評価されていない恐怖

大学に勤め初めて、8年ぐらいたった時、なんかおかしいなと思い始めました。皆忙しそうに、充実しているかのように働いているけど、そして、車や家を買ったり、子供を育てたりしているけど、充実しているように見えるけど。。。皆、大変疲れています。幸せそうじゃないんです。思い起こせば、自分が大学院生だった時の先生達も、目の下にクマつくって、いつも疲れ切っていました。無理もありません。常に恐怖に晒されているんです。

クライシス・マネージメント。なぜこんなに色々と事件が怒るのかと思うほど、クライシスは頻繁に襲って来てました。そもそも、アメリカは起訴する人が多いので、訴えられないようにするための防御です。セクハラ、パワハラ、学生同士の揉め事、人種差別問題、学生の不満、上からの新しい指示に対する対応、教育委員会からのアセスメントなどなど。そしてこういうことの一つ一つに、一人一人の利益が絡んできます。皆、私にとって何が一番の利益か?何がそれを脅かすのか?が軸になって、何かに賛成したり反対したりしてしまうのです。さらに驚いたのは、私の学部では教員のほとんど全員が、「自分の価値を評価されていないのではないか」という恐れを持っていたということ。それは、前にも述べた、年に一度の評価会議で顕著に現れます。恐れがあるから、自分で自分にムチ打って過剰に働く。恐れがあるから、エゴで気張ろうとする。この恐れって幻想なんですけどね。

先生が恐れをベースに教育していては、生徒がのびのびと育つことはできませんし、「人間を育てる」なんてことはできないです。現に、先生のほとんどが、学業に関することでは生徒に話ができても、他の面については、きちんと話ができる人が少ない。「人間としての」礼儀とか、「人間としての」態度とか。そこは自分の管轄じゃない、関係ないと思ってしまうんですね。

リベラルアーツって、たしか包括的な人間教育でしたよね?学問を通して人間を教育するはずなのですが、肝心の人間としての能力が育ってこないんです。学問以前の問題です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?