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学校は人間を育てるところか?(その五)~ 生産性を上げる?

前回は「競争意識」と「結果思考」についてお話しました。今回はその源を探ってみます。

長年学校教育に携わってきて、学校という機関の一番の目的は、生産性をあげることであるのに気づきました。先生達は、常に学校から「結果をだすように」「教育水準の高さを証明するように」言われています。卒業した生徒が有名になれば、学校の株が上がる。その生徒を育てた先生の株が上がる。先生はそういう可能性のある生徒に、より時間と労力を注ぎ込もうとすることになりますね。私のいた演劇科だと、例えば、有名になりそうな資質の生徒を選んで、何度も学部内のプロダクションにキャストしたりするわけです。演劇の勉強って、人間の成長に直接関わる要素が多いので、よりたくさんの生徒にプロダクションに参加する可能性をあげれば良いと思うのですが、なかなかそうはなりません。「社会で評価を受ける優れた結果を出す生徒」を生産することが、先生の評価に直接繋がるのです。そして、それは又18才から21才の感受性高い生徒の中に、先生から評価を受ける=優れた人間という図式を植えつけてしまいます。こうして、学校が先生を評価するやり方と、先生が生徒を評価するやり方が自ずと同じになってきます。

こうした環境の中では、「自分の価値が仕事の評価で決まる、自分はここ以外のところでは働けないという恐れ」が生まれてしまいます。そして様々な仕組みがこの恐れを助長します。大学で教職を得てから、最初のオリエンテーションに行って驚きました。大学の経済状態と、いかに生徒をキープしないといけないかを滔々(とうとう)と話されるんですね。胸膨らまして、夢と希望に満ちて教職に進んだ初日です。学校の教育に対する理念や私たち教師の志や希望、学問に対する姿勢をどうして伝えていけば良いのかを話しあう場だと思っていたら、大間違いでした。

そして、三年ぐらいたつと、テニュア(終身雇用の権利、だいたい6-7年勤めると、査証がある)を取るにはなにをしないといけないかのオリエンテーションがあります。こういう書類を集めて、これぐらいの業績をあげて。。等々。ある先生の中には、トイレに行く度に自分が成し遂げた業績を小さいことから大きなことまでメモっていたというから、大変なものです。そして、先生方の競争意識を煽るのに、教育水準を保つという名目で、同じ学部の中で、毎年査定があり、優れた先生には賞を与えるとか、活躍している先生には特別待遇が与えられたりします。その基準はどれだけ生徒や社会から評価されたかという点数方式。この評価は学部内、自分達で決めるので、一見、良さそうに見えますが、賞罰を決める権利を学部という自治体に与えることで、上は責任をとらなくても良い。先生たちの中で、足を引っ張ったり、主観的に相手を批判したりするということも出てくる。中で、「もっと働けよ、お前。」ということになるわけです。そんなこと私は気にしないわ、と頑張っても、頭の片隅のどこかにその思考が植えつけられる。そのうち、上から何も言われなくても、自分で自分に、もっと働かなきゃ!、もっと業績をあげなきゃ!、私が優れていることを証明しなきゃ!。。。となる。報酬にしても陰でうまく交渉した人は、前からいた人よりも給料が高いという「不透明性」があったり、「生産性」が高いビジネス分野の先生方の方が、芸術分野の先生方よりも高いのです。この恐れに縛られて、生産性をあげるために、土曜も日曜もなく、一日12−14時間働きます。

 私はその時間を使って、自分の人間性を高め、生徒の人間性を高めるにはどうしたら良いかに時間を費やしていたのでしょうか?同僚と一緒に、クラスの内容を話あったり、一人の生徒の成長について話し合ったりしていたのでしょうか?残念ながらそうではありません。12−14時間中の三分の一は、クライシス・マネージメント(苗かしらいつも問題を抱えているのです)のためのミーティング、三分の一は、リクルートメントとアドミニ、後の三分の一は、自分の業績を上げるプロダクションの準備や、奨学金の申し込みなどに費やされ、教えることは、全体の仕事の10%以下になってしまっていました。

自分が教師だったことさえも忘れてしまいそうでした。

生産性をあげなければ、生徒が入って来なくなり、仕事がなくなる。生産性をあげなければ、あなたの価値は下がる。そういう恐れを常にどこかに持って、毎日を生きていました。

7年に一度研究機関として与えられるサバティカルという制度は、日頃自分を肥やすための時間がほとんど取れない教員のために設けられた制度です。7年間フルに働いていれば、大体皆疲弊していますので、サバティカルは必要なのですが、そこでもまた「生産性」が求められます。何かの目に見える業績を残せなければ、申請書は却下されて、サバティカルももらえず働き続けることになります。先生という人間を育てるのに本気で力を入れていないのです。そういう先生は生徒という人間を育てるのに、力を入れない。演劇の指導や授業の指導はしても、生徒の精神性や学ぶ姿勢などに本気で関わっている先生は、本当に少ないです。生徒の人間としての指針を考えて導くことができる先生が、年々減ってきているように感じます。

学校というところが、いかに他人本位の生き方を推奨し、人間の成長に十分に力を入れず、根本的な人間の価値に対する考え方を歪めてしまうか、アカデミアで過ごした何十年もの生活の中で、痛感したのでした。


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