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日の名残り
午後9時、外は雨音で満ちている。蛍光灯の灯りの下で、明るいランタンをテーブルに置き、タブレットを開く。ピンク色の手帳と3色ボールペン、ムーミン柄のコーヒーカップを、タブレットの横にスタンバイ。手が汗で滲んでいる。もうすぐ始まるのだ、ZOOMでの読書会が。
この読書会に参加するのは2度目。6名の参加者が画面に集まっている。同年代の方はひとり、後は10歳以上は若いであろう方々が、慣れた感じでそれぞれの本の紹介をしている。毎回、場違いじゃなかろうか?キラキラしてる集団には縁が無かった私が、いていいのか?と思う。しかし、そこはZOOM 、一瞬で集まって、一瞬で消える。恥は書き捨てでいいのだ。
今回紹介したのは、カズオ・イシグロ氏の【日の名残り】。読んだのは2年前、対面で話す過去の読書会で1度紹介していた。読み返すと、こんな場面もあったんだと、新鮮な気持ちを味わえた。それでも、映画も観たし、心に残っている場面ははっきりしていた。ペラペラ喋る技術は無いので、手帳にざっと内容を書いてみた。
この本は1989年、イギリス最高峰のブッカー賞を受賞している。主人公スティーブンスは、アメリカ人の大富豪に執事として仕えている60代のイギリス人だ。第二次世界大戦前には、イギリス人のダーリントン卿に仕える優秀な執事だった。その過去と現代を、交互に描写し物語は進んでいく。
この本には、3つのテーマがある。まず、老いていく事。イギリス貴族のダーリントン卿の元で執事として働くスティーブンスは、当時30代。優秀な執事として尊敬していた父を副執事にし、一緒に働く事にした。しかし、70代の父はささいなミスを繰り返し、庭で石段に躓き、ゲストにお茶を溢してしまう。スティーブンスは憧れの父親に、裏方として働くよう言わざるをえなかった。どんな優秀な人でも、老いには敵わない。その切なさ。
現在のスティーブンスは60代、小さなミスも増えてきて、老いを認めたがらず、人不足が原因だと思おうとする。そんな時、昔の同僚、ミス・ケントンから手紙を貰う。女中頭だった彼女が戻って来てくれたら、きっと上手くいく。そう、昔一番輝いていた時代が、頭から離れないのだ。意を決して彼は休暇を貰い、彼女に30年ぶりに会いにいくのだ。
そこで2つ目のテーマ、職場での品格と恋愛。昔、スティーブンスとミス・ケントンは仕事でぶつかり合いながらも、働く姿勢に共感し惹かれあっていた。そんな時、事件は起きる。ドイツ人の友人の影響を受けたダーリントン卿は、ユダヤ人の召使いの女の子を解雇すると言い出したのだ。おかしい、そうスティーブンスは思ったが、敬愛する主人には言えない。
スティーブンスはミス・ケントンに、召使いの解雇を告げ、ユダヤ人だから、という理由も話す。その時、自分の中の葛藤は微塵も見せず、ミス・ケントンを失望させる。後でその時心苦しかったとケントンに言うが、あの時一緒に悩んで欲しかったと告げられる。苦しみを分かち合いたかったと。
そんな事もあり、ふたりは勤務が終わった後、会議と称してミス・ケントンの部屋でココアを飲むのが日課になっていた。しかし、ちょっとした行き違いでスティーブンスはへそを曲げ、ココア会議は終わりを告げた。
それからしばらくして、ミス・ケントンは昔の知り合いに求婚された事をスティーブンスに告げる。どうすれば良いかと。スティーブンスは君の好きにしたらいいと言ってしまう。彼は、仕事に私情を持ち込むことは品格に欠ける、そう頑なに信じていた。彼女が自分に対してそれ以上の想いを持っている事、そして自分の中にもそれがある事を恐れ、距離を置いたのだ。
3つ目のテーマは、前を向く事。スティーブンスがダーリントン卿の元で働いていた時代は、第二次世界大戦前夜。その頃、ダーリントン卿ホールでは、政治的なイベントが行われていた。その中には、イギリスの首相と外相、ドイツの大使との会合もあった。ダーリントン卿はヒトラーに操られ、イギリスの国王のヒトラー訪問を提案していたのだ。
その会合の最中、ダーリントン卿が目をかけているカーディナルという青年がダーリントン卿の屋敷に訪れた。会議の内容を探りに来たのだ。そしてスティーブンスに意見する。「ダーリントン卿は紳士だ。第一次世界大戦で敗戦国となったドイツに対して、寛大に振る舞い友情を示している。友情を示すのは紳士としての本能だ。やつらはその高貴な本能を利用しているんだ。貴方はおかしいとは思わないのか、この問題に興味はないのか!」と。
だが、スティーブンスは「私はご主人様の良き判断に全幅の信頼を寄せています」としか答えない。執事としての自分の考えを、敬愛する主人に言うことは品格に欠ける、そう思っていたのだ。この人はと認めた主人であるからなおのこと。しかし、第二次世界大戦後、ダーリントン卿はナチスの親派とみなされ落ちぶれて、亡くなってしまう。
ダーリントン卿とスティーブンスは揺るぎない信頼関係で結ばれていた。しかし、卿の紳士としての気概につけ込んだ友人のドイツ人により、卿が危険な道に入って行くのを、ただ、黙って見ている事しか出来なかった。
あの会合の夜、もうひとつの出来事があった。スティーブンスはミス・ケントンから大事な話しがあると言われたが、忙しさもあり、剣もほろろに断った。その夜、彼女がドア越しに泣いている姿を見かけたが、声をかける事もできずその場を去ってしまった。それからしばらくして、ミス・ケントンは結婚を決め、屋敷を去っていった。
物語は現代に戻り、ふたりは再会を果たす。スティーブンスが思っていたよりもケントンは今の暮らしに満足しており、もう一度一緒に働く希望は叶えられなかった。帰り道、彼は突然気付く。ダーリントン卿は自分が過ちをおかしたが、それを自分の意思で選んだ。ケントンも自分で生きる道を選んだ。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えない私に品格など無いと。
桟橋のそばで、偶然隣に座った男性に、泣きながら身の上話しをしてしまったスティーブンス。男性のこの言葉に勇気をもらう。
「後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。何だって?昔ほどうまく仕事ができな?みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ。あんたもわしも、もう若いとは言えんが、前を向きつづけなきゃいかん。人生楽しまなくっちゃ。夕方が一日で一番いい時間なんだ」
夕方になり、桟橋に無数のあかりが灯る。見ず知らずの群衆が歓声をあげ、楽しげに笑い合っている。スティーブンスはもう、過去を振り返るのはよそうと決心する。そして、今のご主人様に対して誠心誠意尽くそうと。まずは、アメリカンジョークをうまく言えるよう特訓し、ご主人様をびっくりさせようと、真面目に彼は思うのだった。
ZOOMでの発表は緊張して、しどろもどろになってしまった。ちょっとした言葉さえ出てこないで、あぁ、老いってこうやって始まって行くんだと実感。それでも、楽しめればいいの。他の人のおすすめ本や、若い人の考えも知れて、自宅にいながら世界が広がっていく。
来週は別の読書会が待っている。紹介する本を決め、また、ピンク色の手帳に3色ボールペンで内容を書き込もう。うまく出来なくてもかまわない。緊張って生活においての、スパイスだから。
外は雨、雷が空を走り回っている。水量が増した川の、ザアザアと吠える声が聞こえる。ソファーから立ち上がり、キッチンへと向かう。今夜はまだ眠れそうにない。麦茶で喉を潤し、時計を見ると、午前3時を回っていた。