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のんちゃんの希望、もしくは水たまりに映る月明かり

 のんちゃんの朝は早い。病棟内で1、2を争うほど早起きだ。みんなで食事をするホールへ行って、カーテンを開ける。しんと静まり返って、まだ朝日も出ていない早朝4時ごろ。のんちゃんの朝は早い。

 「おはようございます」と言っても返事はない。聴覚障害で聴こえない、話せないから。それでも視線が合うとにっこり笑う。言葉にはならない擬音で「オハヨ」と返してくれる。機嫌が悪い時はその限りではないけれど。


 のんちゃんはものすごく強い。転んで車椅子生活になっても、自分の事は自分でこなす。片手にお茶の入ったコップを持って、片手で車椅子の車輪を回す。時にはポータブルトイレを自分で捨てに行っている。慌ててそれだけはやめてと何度説明したことか!


 のんちゃんとのファーストコンタクトは忘れない。他病棟から移動してきたのんちゃんは、ナース室前でにっこり笑ってこちら側を見ていた。職員を値踏みしていたのだろう。視覚という情報でしかのんちゃんは闘う術を持たないのだから。まんまとその笑顔に愛らしさを感じてしまった私の完敗だ。


 のんちゃんは60歳を超えている。私はのんちゃんに食事を配る時、つい癖で豆腐に付いている醤油の袋を開けた。豆腐にかけるや否やのんちゃんは怒った。物凄い剣幕で怒り要らないと突き返してきた。私はしょうがなく豆腐を下げて破棄した。のんちゃんは驚いた目でこちらを見ていた。

 別の日のんちゃんは自分で醤油の袋を開けた。豆腐が嫌いだったわけでなく、自分で出来るから手助け無用と言っていたのだ。私は目から鱗が落ちた。何でもやってあげるのが、その人の為になるわけでは無いんだ。


 のんちゃんは病院に何十年もいる。幼少から家族と別れ施設に入り、逃亡したり、居なくなったり、男性の元に匿って貰ったり…とにかく脱出ばかり繰り返していたらしい。その後いつの間にかここの病院の主のようになっている。他にも主はたくさんいるのだけど。


 のんちゃんはカラオケを歌う。もちろん言葉は出ないからあ〜だのう〜だの感情を込めて歌う。耳は微かに聴こえているのかもしれない。それにしてもその度胸はすごいと思う。みんなの前で堂々と自己表現をしているのんちゃんを見ると、畏敬の気持ちが湧いてくる。生命力が輝いている。


 のんちゃんの夜は早い。夕食が終わると早速カーテンを閉める。誰かが開けようものなら大声を出して叱る。生活のリズムは私が作るのよ!と言わんばかりだ。それでも良いよね。のんちゃんの居場所はここなんだから。自分で作った居場所なんだから。


 のんちゃんの寝顔は可愛い。喜怒哀楽が激しいお昼と違って、安らかに微笑んでいる。これからもずっとここにいるんだろう。その覚悟を決めて生活しているのんちゃんは、水たまりに映る月明かりのように眩しい。

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