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ワーグナー嫌いが目覚める時〜【Opera】新国立劇場『ワルキューレ』

 2015年から新国立劇場で上演されたゲッツ・フリードリッヒ演出による『ニーベルングの指環』。再演となる本公演は、指揮者として予定されていた飯守泰次郎の代わりに芸術監督・大野和士がピットに入る。またピット内のソーシャル・ディスタンスを確保するため、管弦楽は中劇場・小劇場用のアッバス版を採用(アッバス版については大野和士の説明動画を参照)。さらに海外から招聘予定だった主要キャスト陣も、ヴォータンのミヒャエル・クプファー=ラデツキー以外はすべて日本人キャストに変更。特にジークムントは第1幕を村上敏明、第2幕を秋谷直之が歌うという変則バージョンとなった。

 私は常日頃から「ワーグナー嫌い」を自称するものであるが(笑)、それでもワーグナーの音楽の価値を認めないわけではない。というか、そりゃ音楽史的な位置付けからいっても、実際に鳴り響く音響からいっても、「すごい」ことに異論はない。じゃあ何が嫌いって、まず徹頭徹尾「俺様」な(そして多分に女性蔑視的な)ドラマ作り。ワーグナー先生、オペラで自分の欲望やら願望を叶えまくっちゃってますよね。いや別に、自分の作品なのだから何をやっても文句を言う筋合いではないが、観ているこっちは全然納得できないし、1ミリも共感できない。そして「俺様」っぷりを遺憾無く発揮している巨大な音楽構造。休憩入れて5時間って、どう考えても非人道的である。途中で意識を失う者が続出しても不思議ではない。

 『ワルキューレ』(というか『指輪』全体だけど)に関していえば、ヴォータンのクソっぷりが際立っている。そもそもあんたの権力欲がすべての元凶なのに、妻にたしなめられて主張は引っ込めるわ、契約にがんじがらめになって思い通りにいかないと嘆くわ、挙げ句の果てにこんなに何もかもダメなら世界が滅びればいいのに、って、どんだけ自己中の厨二病なんだ。挙げ句の果てに反抗した愛娘ブリュンヒルデに、そこらへんのクソ男にヤられてしまえというに至っては、自己中+厨二病+毒親の数え役満である。みんな、なんでそんなに『指輪』が好きなのか、本当にわからない。

 ところが今回の『ワルキューレ』、不覚にも(不覚にも?)私、感動してしまいました。その最大の原因は「音楽」にあったのだと思う。というと、おまえは今頃何を言ってるんだと嘲笑われるかもしれませんが、勝因はアッバス版かもしれない、と思いついた。日本でワーグナーを上演する場合、とにかく「歌手の力量」というものが問われることになる。長時間に渡って巨大な音量のオーケストラとともに歌い続けるスタミナ。「ヘルデンテノール」や「ワーグナー・ソプラノ」と呼ばれる、太く重くかつ輝かしさをもった声の質。しばしば極端に前衛的になることもある演出の要請に応えるだけの表現力(これはワーグナーに限ったことではないが)。それらをすべて兼ね備えた歌手が日本に少ないのは事実だ。しかし今回は、コロナという不可避の理由によるものとはいえ、管弦楽が縮小された。その音響が日本人歌手たちの声の表現とピッタリはまった。結果、「音楽が描き出すドラマ」というオペラの本質がいきいきと、説得力を持って現前したのだ。

 私は何も「日本人歌手は声が小さいから縮小版オケじゃないとワーグナーは歌えない」ということを言いたいのではない。先の動画で大野和士芸術監督も述べているように、アッバス版は確かに楽器の数は減らされているが、ワーグナーに必要な「響き」はきちんと確保されている。確かに「ワルキューレの騎行」など少し迫力が足りない、というか音の大きさを確保するためにちょっと乱暴になっているかな、というところはあったにせよ、オーケストラの響きが、歌手のより繊細な表現や演技を際立たせていたのは確かだ。だからこそ私のような者(!)にまで、ジークムントのジークリンデへの愛が、ジークリンデの絶望と再生への希望が、ブリュンヒルデの父への愛が、そしてヴォータンの娘への思いすらもはっきりと伝わってきたのだと思う。もちろんこれは、大野和士と東京交響楽団の功績であることは間違いない。

 日本人歌手の面々は、この常とは違う状況の中でたいへん健闘していた。特にブリュンヒルデの池田香織は、「愛」というものの大切さに気づいた女性の輝きを見事に表現して素晴らしいできばえ。つい先日東京二期会『タンホイザー』でヴェーヌスを演じた時にも思ったのだが、この人の声には「品」がある。それが「ワルキューレ」としての自意識、さらには神の娘であるという誇りのようなものを感じさせて説得力があった。ヴェーヌスの時には「ワーグナーにはやや細いかな」と思った声の質も今回は気にならなかった。ジークリンデの小林厚子は、イタリア・オペラで活躍しているソプラノだが、実はコンサートでエリーザベトの「歌の殿堂のアリア」を聴いてワーグナー向きの声ではないかと思っていた。今回、その存在感をしっかりと示したと思う。所属の藤原歌劇団はあまりワーグナーをやらないが、例えばエリーザベトはぜひ舞台で聴いてみたい役だ(狭い日本、団体の壁を越えて互いに適材適所の歌手を揃える公演がもっとあっても良いのではないか)。

 「ワーグナー嫌い」をも感動させてしまうワーグナー。これはやはり恐ろしい作曲家だと改めて感じた公演だった。

2021年3月11日、新国立劇場オペラパレス。


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室田尚子
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