【全文無料公開】 『会社を使い倒せ!』 #3 答えは会社の中にあるとは限らない。
第3章
答えは会社のなかにあるとは限らない。
会社の外で自分を試す。
カンヌから帰ってきた後、コピーライターになりたいという思いと同時に、僕のなかで、もうひとつ、湧き上がってきた思いがありました。
企業の課題解決としてデザインをするのではなく、もっと別の何かを生み出すクリエイティブを自分はやりたいのではないか。
表現としてのデザインを追求する。言ってみれば、自分のなかから出てくる、内発的な衝動をアウトプットしたい、という思いでした。
誰にも何も言われず、良いも悪いも、すべて自分の責任、という環境でモノをつくる。
つまり、自分の真価を問う試みです。制約がない状況でモノをつくり発表して、それが世の中にどう受け入れられるか、ということを試したかった。
それが、デザインスタジオ「YOY」の立ち上げと、ミラノサローネへの出展でした。入社5年目の2012年4月のことです。
YOYのパートナーである山本侑樹とは、同期のデザイナーに誘われて行った集まりで出会いました。僕は学生時代に少し遠回りをしていますので、年齢は上になりますが、会社の入社年次は同じでした。
好きな音楽の方向性が似ていたこともあって、ときどき一緒に音楽のライブに行ったりしていたのですが、たまたま何かのタイミングでデザインの話になりました。それが、とても楽しかったのです。
僕はまだコピーライターになる前で、博報堂では空間デザインの仕事をしていて、山本は当時、大手企業で家電製品のプロダクトデザイナーをしていました。ジャンルは違っていたのですが、どこかウマが合ったのです。
山本と話をしていて面白かったのは、空間デザインとプロダクトデザインは、同じ「デザイン」と名前がついていても、考え方やアプローチが似ているところと、まったく違うところがあったことです。
例えば、彼は、どう機械を内部に収めるか、という「外側」を見るのですが、僕はどう内部で過ごすか、という「内側」を見る。
また、スケール感の違いもあって、彼はドライヤーなどの手に持てるくらいものを考える。一方で僕は、都市のスケールから、建物のあり方をどうするか、というところを考える。
同じデザインという名のついたものに取り組んでいるのに、二人とも視点がまったく違うのが面白いと思いました。
それでいて、どうやったら美しく見えるか、どういう素材がいいか、といった部分で二人は、近い感覚を持っていました。
デザインに対する相違点と共通点がはっきりと見えて、話をしていてとても面白かったのです。一緒に何かをやれば、面白いものができるのではないか、ということは漠然と思っていました。
直接のきっかけになったのは、一緒にミラノサローネを見に行こう、という話になったことです。
ミラノサローネというのは、年に1度、イタリア・ミラノで行われる家具や照明、インテリアなどのデザインの見本市のことです。
毎年4月に6日間かけて行われるのですが、2000社近い企業が出展し、1000以上のイベントが同時に開催され、新作家具や新作照明が発表されます。企業のインスタレーションなどもあり、街をあげたデザインのお祭りとして行われています。世界中から40万人以上のデザイン好きの老若男女が集まる、デザインイベントとしては、世界最大規模の祭典といっていいと思います。
最初は、ただ刺激を受けに見に行こう、くらいに思っていたのですが、行きの飛行機で話をしているうちに、「どうせだったら来年なんか出してみる?」「じゃあ出そうか!」ということになったのでした。
というのも、ミラノサローネには、メイン会場の一角に若手が出展できる「サローネサテリテ」と呼ばれる場所が用意されていました。
もちろん出展料はかかりますが、そこだったら僕たちにも出展できるかもしれない、と考えたのです。
「YOY」という名前も、飛行機のなかで決めました。二人の名前のイニシャルからつけた名前で、「良い」の意味を込めています。
「二人でやるなら、空間とプロダクトだから、その間っていうテーマはどう?」「いいね」などと盛り上がっているうちに、最初の作品のアイデアも、このときの飛行機のなかで生まれました。
ミラノに着いて、実際に会場に行ってみると、プロから学生まで、いろんな人が出展していました。それこそ、モーターショーと学園祭がくっついて、規模を何倍にも大きくしたような感じ。まさにお祭りです。
そしてもうひとつ、実際に行ってみてわかったのは、ミラノサローネは、思ったほど敷居の高い場所ではない、ということです。
これなら、本当に僕たちにも出せるかもしれない。
こうして翌年、僕たちがつくった作品が、大きな反響を得ることになります。
YOYロゴ
山本侑樹、小野直紀のそれぞれのイニシャル「Y・Y・O・N」から「N」を抜いて「YOY」と名付けた。「良い」の意味を込めている。
3年で結果を出す。
YOYの初めての作品は、僕たち二人が最初にミラノサローネに行ったときの、行きの飛行機のなかで浮かんだアイデアから生まれました。
それが「PEEL」という作品。
壁の端がめくれ、そこから光が漏れているように見える照明です。
有機ELを用いて光源を極限まで薄くし、電源コードは壁の隅に沿わせて目立たなくしました。裏側の穴にフックを引っかけて壁に設置します。
僕は空間、山本はプロダクトが専門だったので、YOYのデザインテーマを「空間とモノの間」としました。
空間のなかにモノが置かれたときに、空間全体の見え方や感じ方が変わるものをつくろう、ということです。
「PEEL」は、壁の端を思い浮かべながら、端がめくれて、その向こうから光が差し込んできたら面白いんじゃないか、というふうに発想していきました。
では、これをどうやってつくるか。
山本は家電に関わっていたので、そこには詳しいわけです。つくるとしたら薄い光源が必要だ、こういう技術があるので、これを使おう、と具体的に話が進んでいきました。
「PEEL」(2012)
壁の端がめくれ、そこから光が漏れているように見える照明。有機ELを用いて光源を極限まで薄くし、電源コードは目立たないよう壁の隅に沿わせている。
ユニットをはじめるにあたっては、いくつかの条件を設定しました。
何かを生み出すといっても、どんなものでもいいわけではない。どんなアイデアでもいいわけではない。
逆に言えば、条件を設定することによって、アイデアは絞り込まれていきます。
二人で設定した条件は、単に面白いものや一点もののアートピースをつくるということではなく、量産できるもの、商品化できるものをつくる、ということでした。
ミラノサローネでは、メーカーが若手デザイナーたちの作品を商品化する権利を買いにくる、ということがあると聞いていました。そこで、「商品化」を僕たちのひとつのゴールに置いたのです。
テーマは空間とモノの間、そして量産可能な商品という縛りをつくったことで、アイデアには制限がかかります。
結果的に、それが作品の特異性を生み出したのだと思います。
表現として新しいもの、アートっぽいものは、面白いけれど、量産可能な商品としては成立しないことが多いのです。だから、使う素材を流通しているものに絞ったり、つくり方も量産性の高い一般的なものにしていきました。
ただし、アイデアに関しては、日々の生活のなかで驚きや楽しさのあるもの、というのを念頭に考えました。便利なものはつくらない。それは普通のメーカーがやればいいことだから。
新しい機能ではなく、新しい表現を探す。そして、それが使われる場に置かれたときに、その見え方が新鮮なものをつくろう、と。
最初のミラノサローネでは、さきほどの壁の照明「PEEL」に加えて、「BLOW」「SCRIBBLE」の合わせて3作品を出展しました。
「BLOW」は、風で舞い上がる紙をモチーフにした壁掛け棚です。A4サイズの薄いスチールを型で曲げて成形しました。裏側のフックに金具を引っかけて設置します。
また、「SCRIBBLE」は、落書きをモチーフにしたテーブルマットです。薄いシリコンの板をレーザーカッターで落書き風にカットして成形し、コースター、鍋敷き、ランチョンマットをつくりました。
この3点の出展は、大きな反響を呼びました。発表した翌日には地元の新聞に掲載され、3点ともいろんな会社から「これを商品化したい」という話がきました。
そして、「SCRIBBLE」はアメリカのMoMAから、「BLOW」はイタリアの家具ブランドからの依頼で、その年のうちに商品化されることになったのです。「SCRIBBLE」は実際にニューヨークのMoMAで販売されました。
上「BLOW」(2012)/下「SCRIBBLE」(2012)
「BLOW」は風で舞い上がる紙をモチーフにした壁掛け棚。「SCRIBBLE」は落書きをモチーフにしたテーブルマット。
YOYをはじめるとき、「3年はやろう」という話を山本としました。
そして、「3年で結果が出なければスパッと辞めよう」と決めました。
中途半端にやっても、絶対にうまくはいかない。こういうものは覚悟を決めて全力を尽くさないといけない、と考えていたからです。
その覚悟の証明として、期間の設定は重要になります。なんとなくやる、ではなく、3年で結果を出す。
それでダメだったら一生デザインを語るのはやめよう、くらいの気持ちでいました。
当時の僕は、思うような仕事がなかなかできない状況にありました。でも、それは仕事が悪いのか、環境が悪いのか、自分が悪いのか、わからなかった。
だから、どこに問題があるのか、はっきりさせよう、と思ったのです。
自分が悪いなら自分が悪いと、言い訳できない状況に追い込んでしまおう、と。
言ってみれば、YOYでは誰に頼まれたわけでもなく、自分たちがいいと思うものをデザインして発表するのです。それで勝負して結果を出せなかったら潔く辞める。それが僕の覚悟でした。
お金をかけると、覚悟が決まる。
YOYに全力を尽くすことの証明は、もうひとつありました。
それは、お金をかける、ということです。
お金をかけると本気になるからです。
実際にモノをつくるわけなので、一見ちょっとしたものでも、プロトタイプをつくるのには、結構な額がかかります。また、出展するのにも100万円以上かかりました。小さなお金ではありません。だから、必死になります。費用はもちろん自腹でした。
3年で使った費用は、1000万円を超えたと思います。一人500万円。それなりの金額です。
YOYでお金儲けをする、という考えも持つことはありませんでした。幸い会社員なので、給料は毎月振り込まれますし、お金に困ることはない。
そもそもそんなにお金が必要なのか、という思いも持っていました。
僕は、仕事はやりたいことを実現するための手段だと思っています。
仕事自体が目的になったり、食べるために働くという考えはまったくありませんでした。それこそ食べるだけなら、どうにでもなると思うのです。
僕が求めているのは、本能的欲求です。自分がいいと思って全力でつくったものを他の人にもいいと思ってもらうこと。
それは、僕にとってものすごく気持ちのいいことでした。その本能的欲求に素直に従いたいと思ったのです。
「世の中を変えてやる」とか、そういうことを考えていたのでもありません。
結果的に世の中にいい変化をもたらすことができればいいと思っていますが、そんなに大きな野望があるわけでもない。
でも、子どもが喜んでくれたり、おばあちゃんが「これ、欲しい」と言ってくれたりするものがつくれることこそが、喜びだったのです。
だいいち、博報堂では副業は禁止されているので、他のビジネスを手がけて収益を上げる、ということは認められていません。ただ、社外でいろんな取り組みをすることは推奨されていました。
振り返れば、年1回の出展、というのも良かった。いいアイデアは無尽蔵に出てくるわけではないので、自分たちのペースでやらなければうまくいかないのです。
実際、今では出展とは別に、世界中の企業からデザインの依頼がくるようになりましたが、なかなか対応ができていません。自分たちのペースを守ることを重視し、思いついたら提案します、というスタンスをとることがよくあります。
なにより、YOYでは制約が「自分たちがいいと思えるか」だけです。クライアントの要望を満たしたり、予算や期限に追われたりしだすと、自分たちがいいと思えるものがつくれなくなるのではないか、と考えていました。
ただ、本当に自分たちの力だけで勝負せざるを得ない。なんの制約もないから、なんの言い訳もできないのです。
完全なるエゴイスティックな自己表現。しかもお金がかかる。
当時は独身でしたし、一方で忙しくて時間もないので遊ぶことはできないし、お金を使う場もなかった。
YOYの活動くらいしか、お金が必要なところはありませんでした。物欲もそんなにあったわけではないし、旅行も行かないし、車も欲しいとは思わなかった。
3年で1000万円使った、というと驚く人もいますが、車を買ったり旅行に行ったりしていたら、意外とそのくらいは使ってしまうのではないでしょうか。
貯金しても、それで何かが生まれるわけではありません。それなら、そのお金を、自分を試すために使う、というのは、全然アリだと僕は思います。
どんなに忙しくても、時間はつくれる。
博報堂の仕事も忙しいなかで、時間はどうしているのか、と聞かれることもありますが、僕はこう考えています。時間はつくろうと思えばつくれる、と。
もちろん、人によるのかもしれませんが、まったく時間がない、ということはないと思うのです。
博報堂ではコピーライターになったばかりだったので100%以上、そしてYOYも100%以上のつもりで、両方全力でやっていました。全力でやらないと、どちらも勝負ができないと思っていたからです。
今考えると、全力を尽くさないといけないものが同時にふたつあるというのは、普通じゃなかったかもしれません。二兎を追うもの一兎も得ず、となっても仕方なかったとも思います。
でも、当時の僕は普通じゃないと頭ではわかりつつ、それならどっちもやって、どっちも手に入れてやろうと、その普通じゃない状態を自分のモチベーションに昇華していました。
YOYの活動は、主に年1回のミラノサローネへの出展に絞っているとはいえ、アイデアを出すのには苦労しています。うんうんとうなりながら、数千ものスケッチを描くのです。模型をつくったりもします。休みの日も使い、電車のなかでアイデアを考え、会社の仕事が終わってからも考え続ける。
もちろん会社も忙しいわけですが、本当にぎっしりスケジュールが埋まっているのかといえば、打ち合わせと打ち合わせの間、外出するときの移動の時間など、ちょっとした合間の時間は必ずある。そういう時間もうまく使うようにしていました。
それこそ、空き時間ができたらやろう、ではなかなかできません。また、会社の仕事とは使う頭の部分が違う。だから、1日のうちに何案出そうとか、1週間で何案出そうとか、そんなふうに自分で決めて、考える時間を意識的につくるようにしていました。
なにより僕にとっては、言い訳なしで必死で打ち込めるものがある、ということが大事でした。
自分の仕事がうまくそうなっていればいいし、趣味がそうなっている人もいるかもしれませんが、僕は、そのときやっていた仕事とは別に、もっと打ち込めるものが欲しかったのです。
なにかクリエイティブなことをしたいけれど、会社でやりきれていない。モヤモヤしたなかで、それを発散する場が欲しかった。
そのための時間であれば、無理にでもつくろうとするのです。
大事なのは、本気で打ち込める状況をつくること。
そして、改めて大切だと思うのは、締め切りや目標をつくるということです。
僕たちの場合は、それがミラノサローネでしたが、目標もなく何かをしてそれで自分で満足するというのはなかなか難しい。
発表なのか、人の目に触れるのか、なにか成果を出すタイミングがあって評価をされないと、自分たちだけだとよくわからないからです。
だから、自分が打ち込んで出したものを、評価してもらえる場を持つ。もっと言えば、打ち込んで出したものを、きちんと見てもらえる場があるものを選ぶのです。
それは、やりたいことを社外でやってみるときの、ひとつのポイントになるかもしれません。
もし仕事でなにか気持ち悪さを感じていたり、やりたいことが仕事で実現できないと感じたり、やりたいことが会社にないと思ったりするのであれば、なにかアクションを起こしてみるべきだと思います。
お金にしても、時間にしても、結局のところは、何が自分の幸せか、ということなのだと思います。その幸せのためにお金や時間を使う。もっと言えば、その幸せに近づくために使うのです。
僕の場合、仕事から離れたモノづくりは、徹底した自己満足でした。
でも、それを世に出すことをゴールにしたことで、自分だけの満足を超えていく可能性を手にすることができた。
それが、大きなモチベーションになっていったのです。
幸いにも、YOYは思ってもみなかった評価を得ることができました。
自分たちがつくったものを商品化して世の中に届けることが、当初、3年やろうとしたなかでの目標だったのですが、それが1年目にもう叶ってしまった。
そして2年目の出展で、大きな話題になり、商品化もされたのが、「CANVAS」という作品でした。
それは、椅子の絵をプリントした伸縮性のある布で木製のフレームを覆ったキャンバス型の椅子です。壁に立てかけて実際に座ることができます。
この椅子が大きな話題になり、世界中のデザインやクリエイティブ系のメディアに取り上げられることになりました。
実は社内で、僕がYOYをやっていることが広く認知されたのが、このときです。
さらに3年目のサローネサテリテへの出展では、当時ふたつあったアワードの両方で特別賞をとることになります。ふたつのアワードを同時に受賞することは、めったにないことでした。
それまでも、イタリアの地元の新聞では、毎年のようにYOYを取り上げてもらっていましたが、この年はアワード受賞によって、大手の新聞にも大きく出ることになりました。それもあって、この受賞は、内外に広く知られることになりました。
社内で、「小野は会社を辞めるんじゃないか」という噂が流れだしたのもこの頃です。
しかし、僕自身はまったくそんなつもりはありませんでした。
それどころか、博報堂のなかで、自分の社内外の経験を活かしながらやりたいことをやり、かつ会社にも貢献できる方法があることに気づいていくのです。
それが、「monom」プロジェクトでした。
「CANVAS」(2013)
椅子の絵をプリントした伸縮性のある布で木製のフレームを覆ったキャンバス型の椅子。壁に立てかけて座ることができる。
会社を辞めない、という選択。
個人活動としてのYOYは、想像していた以上にうまくいっていました。
博報堂社内でも、YOYの活動がだんだん目立つようになっていって、「小野はYOYで賞も取ったし、そろそろ辞めるのではないか」と思われていたことは先にも書きましたが、「いつ、辞めるの?」と冗談交じりで言われることもよくありました。
実際、何かの賞をとって実績をつくった後に、会社を離れて独立したり、より待遇がいい会社に転職したりすることが広告業界では少なくなかったからです。
独立したほうがお金が稼げる。会社に縛られず好きなことができる。そういう思いもありました。
しかし僕は、会社を辞めないという選択をしました。
お金にはそれほど興味がなかったのと、自由に働くという点では、博報堂にいたままでも可能性があるのではないかと思ったからです。
当時の僕は、YOYの活動に手応えを感じはじめた一方で、YOYとは違うモノづくりをしてみたいと思っていました。内発的な動機から新しい表現を追い求めるYOYに対して、それとは異なるかたちで、もっと世の中に向き合って、新しい機能や体験を提案するプロダクトをつくりたいと考えるようになっていたのです。
もとより安易に辞める、という選択をしたくなかった理由がありました。
それは、ここでもまた、高校受験に落ちたときに励ましてくれた大叔母の言葉「ご縁やで。全部あんたのためなんや」でした。
当時はよく理解できていませんでしたが、この言葉は年を経るごとに自分にとって大切なものになっていきました。
仮にうまくいっても、うまくいかなくても、回り道しても、自分に起こったことをちゃんと受け止めて、これは自分のためなんだと考える。もっと言えば、それを、どう自分のためのものにするか、を考えることが重要だと思うようになっていました。
だから、「やめない」ということを大事にしよう、そう思ったのです。
そうすれば、そこから何かがつながっていく。そう考えるようになってから、意識的に、はじめたものをやめずに何かにつなげたい、と思うようになりました。
せっかくもらった偶然を、自分でつなげて活かすということです。
僕は広告会社に入ったのに、偶然にも、広告のど真ん中からキャリアをはじめませんでした。広告が過渡期にある、ということを教わりました。
でも、広告のクリエイティブには可能性がありそうだ、という気づきを得て、自分に何ができるのか、を考えるようになっていきました。
誰かはこうしていたとか、あの人はこんなふうにやったとか、そんなロールモデルのようなものは、僕にはありませんでした。
あの人のようになりたい、と思ったこともなかった気がします。
それよりも、自分がいいと思うものをつくりたかった。
自分がいいと信じられるものを全力でつくって、それを世の中の人が全力で喜んでくれる。そういう状況をつくりたかった。そのことにはっきりと気づいていくのです。
まだ世の中にないもので、新しい価値を提示するもの。そして誰かを感動させられるもの。それを自分というフィルターを通してつくること。
そのための手段として、自分が所属する会社を利用できないかと思うようになっていったのです。
だから、広告じゃないことを広告会社でやる、ということに行き着きやすかったのかもしれません。
自分に起きたこと、自分でやったことをポジティブに受け入れて、その延長線上を探していった結果、そこからmonomは生まれたのです。
掛け合わせて、新しいものを生み出す。
今も覚えていますが、YOYとしての活動が3年目になり、ミラノサローネでふたつのアワードをもらって帰国したのが、入社7年目の4月。
その年に、僕は統合プラニング局という新しい部署に所属することになっていたのですが、実はミラノサローネ直後の4月下旬からゴールデンウィークの間は、僕にとっては最も時間のあるタイミングでした。
YOYの次の活動は1年先。有休休暇を取ってミラノに行っていたので、会社の仕事も、ゆるやかにしか入れていませんでした。
そして、当時付き合っていた彼女と日本に戻って最初に食事をすることになり、僕は渋谷のヒカリエで待ち合わせをしていました。
帰国早々ではありましたが、ミラノでのアワード受賞もあって、僕はちょっと興奮ぎみで、待ち合わせ場所をうろうろしながら、翌年は何を出そうか、あ、思いついた、これいい、どんどんアイデアが浮かぶ、という一種の躁状態でした。
そのときに、ふと浮かんだのです。
いっそ、博報堂のなかでモノづくりをやったらいいんじゃないか、と。
YOYの活動がうまくいって、会社を辞めるという選択肢もあるなかで、僕はまだ広告もやっぱり面白いと思っていました。
でも、自分はまだそれをやりきれていない。広告マンとしてこれから自分がいいものをつくっていけるのか、自分が実際にやっている仕事からすると乖離があって、コピーライターとしても、まだまだこれからでした。
だったら、どうせ辞めるという選択肢があるのなら、会社のなかでやったらいいんじゃないか?
モノづくりと広告。
プロダクトデザインとコピーライティング。
YOYで「空間とモノの間」というデザインのアプローチをしたように、ふたつの違う概念を掛け合わせて、新しいものを生み出すことができるんじゃないか?
これこそ、自分がやりたかった博報堂でのクリエイティブなんじゃないか?
これだ。僕が次にやることは、それしかない。
一気にそんなことをひらめいて、まず思ったのは、これから忙しくなるぞ、ということでした。
とりあえず、やるべきことは全部先に片づけてしまおう。
そう思って、待ち合わせ場所にやってきた彼女に、その場でプロポーズしました。当然のことながら、彼女もいきなりそんなことを言われてびっくりしていましたが……。
2カ月後、僕たちは鶴岡八幡宮で結婚式を挙げることになります。
アイデアを考えていると、躁状態になって、次々と思いつく脳になることがあります。このときが、まさにそうでした。
YOYだけをやると決めたなら、辞める選択肢もあったのかもしれません。
モノづくりをすること自体は、別に博報堂でやらなくても、自分一人で、お金を集めてベンチャーとしてやっていくことも可能です。
しかし、モノづくりへのアプローチとして、博報堂のように、情報によってものを売ったり、ブランディングをしたりしてきた会社が参入することで、今までとは違う、モノづくりのあり方が生まれるのではないか、と僕は考えたのです。
YOYという社外活動で得た職能と博報堂で得た職能を掛け合わせることで、それが可能になるはずだ。そう思ったのでした。
〔第4章につづく〕
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