ゴール地点はハートにある。
「長年、探求をしてきたけれど、終わりが見えない」という方々が多いです。
最近、瞑想や座禅、ヨガ、ヒーリングなどについて僕よりも経験がある方々がセッションに申し込んでくれます。
そして、探求が終わらない理由はそのひとの努力や頑張りが足りないからという理由ではないと思っています。
それは最終地点がどこか分かっていないからです。ゴール地点が分からないマラソンを走りつづけているようなものです。
僕の経験からお話します。
僕が本格的な探求を始めたのは、2018年でした。
その頃、僕はクンダリーニ・ヨガを熱心にやっていたんです。別に悟りたい、という崇高な理由からではありません。
人生を好転させたい、苦しみから逃れたい、という理由からでした。
実は、この「苦しみから逃れたい」という動機そのものが僕から解放を遠ざけていたんです。
ご存じの方も多いと思いますが、クンダリーニ・ヨガでは、第一チャクラ(ムーラダーラ)から、第七チャクラ(サハスラーラ)までの七つのチャクラを開発します。
僕は第一チャクラに眠っているクンダリーニ・エネルギーがサハスラーラまで上昇すれば、生きることの苦しみから逃れられる、そして超人的な能力を得られる、と思っていたんです。
実際、エネルギー上昇は修行を積めば出来るようになります。エネルギーの操作はできるんです。
でもそれは苦しみを取り除いてはくれませんでした。
苦しみはひとそれぞれあると思います。
人間関係、仕事、お金……。それらの問題を深い瞑想(トランス)状態に入ることやクンダリーニ・エネルギーを上昇させる修練をやっている間は忘れられるかもしれません。
ですが、坐法を解いて、立ち上がり、日常生活に戻ったら、また苦しみが始まります。
僕が平穏や至福と呼ばれる状態にとどまることができるようになったのは、とてもシンプルな方法です。
それは「明け渡し」でした。
苦しみは毎日起きます。僕はそのたびに抵抗することをやめて、受容することにしました。
すると、チャクラを覚醒しようとしたり、クンダリーニを上昇させようとしていた時とは異なる本質的な安らぎが生まれたんです。
その安らぎは他でもないハート・センターで感じるんです。サハスラーラではありません。
聖者ラマナ・マハルシが言うように、クンダリーニ・エネルギーはハートに入らなければいけないんです。
そのためには「受容」と「明け渡し」が必要なんです。
ラマナ・マハルシは「明け渡し」という言葉をよく使います。
そして、「瞑想では真我(ハート)と一つになることはできない」という趣旨のことをよく言っていました。
「明け渡し」はただ在る(being)ということです。瞑想やヨガは(doing)なんです。
doingである瞑想やヨガは自我による意志が介在しています。ですから、明け渡しではないんです。これが鍵です。
ヨーガの修練や瞑想法で、エネルギーを操作して、ハートセンターに入り込むことはできないんです。
全てを明け渡して、ただ在る。
そのくつろぎの中で自然にハート・センターに心(自我)がとどまるようになるんです。
もし、このことが分からなければ、瞑想やヨガをやりつづけても、解放は訪れないと個人的に考えています。
もちろん、生活の質が向上したり、健康になることは大いにあると思います。それは何を目的に修行をするかによります。
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僕は現在、ヨガ教室に通っています。
体調を維持するという理由のためです。悟るとか覚醒するためではありません。
そのヨガ教室では体操をした後、瞑想に入るのですが、
ある日、坐法をとって瞑想しようと思うとハート・センターの平穏が消えてしまうことに気づいたんです。
心(自我)がハートから出て行くことに気づきました。
瞑想をしようとすると、ハートから離れてしまうという大いなる逆説があります。
坐法を取ろうとすると、安らぎから離れるんです。
そもそも、なぜヨガのポーズ(アーサナ)をするのか?と言うと、坐法を取って、深い瞑想状態に入ってゆくための準備なんです。
聖者ラマナ・マハルシは坐法をしっかりととって、瞑想をすることを積極的に勧めていません。
ラマナは「ハートの安らぎの中にとどまることがほんとうのアーサナ」だと言っています。つまり、坐法は関係ない、と言っているのです。
さらに聖者は「瞑想が終わり、坐法を解いて立ち上がったら、生活に戻ってまた苦しみと直面しなければいけない」と言います。
僕はこのことについて、ヨガの先生にたくさん質問しました。
でも、理解されませんでした。
「ちゃんと坐法を取って、チャクラを覚醒させて、クンダリーニを云々……」と言われます。
ですから、僕に生きた教師はいませんでした。ラマナの聖典を紐解くしかありませんでした。
ラマナはヨガ行者たちを「目的地を知らずに、さ迷い続けている」と言います。
僕は先生方に比べれば、かなり若く、修行経験も少ないので、反論したところで、相手にされないことが分かりました。
そもそも、先生方はラマナ・マハルシのことを知りませんでした。
結局、瞑想やヨガと言うのは、そのひとが信じている宗派や哲学によって目的や方法が異なるんです。
ですが、個人的には、何年ヨガや瞑想の修行をしたとしても、ハートが何か分からなければ、ラマナの言う通り「さ迷いつづける」ことになるのではないかと思います。
逆に、ハートが何か分かれば、もう修行は終わりに近づいているのかもしれません。ただ静かにしているだけでそのひとは至福の中にあります。
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やがて、僕は気づきました。
「瞑想に入る」という自分の行為そのものが解放を遠ざけていることを。
さらに僕がクンダリーニ・ヨガで疑問に思ったのは、「何世もの生まれ変わりを経て、解脱を達成する」という考え方でした。
チャクラを覚醒させて、クンダリーニを上昇させ、深い瞑想状態に入ってゆく。これを何世もかけてやらなければならない、という考え方です。
反対に、ラマナは「来世のことなんて考えなくて良い、ハート(真我)は今ここにあって、どこか離れたところにあるわけではない」と言っています。
それが真実なんです。全ての苦しみを受容し、明け渡す。そして、今ここでハートに安らいでいるのであれば、来世は必要ないんです。
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ラマナ・マハルシは「今まで適切な霊的指導者が存在していなかった」と語ります。
つまり、クンダリーニの操作や瞑想のトランス状態に没入することで解脱を得られるということは間違いだ、と言ってくれる指導者が存在していなかったため、探求者たちは「さ迷っていた」のです。
でもラマナは「ハートに全てがある」という最終的な答えを世界中の探求者たちに提示してくれたんです。これがラマナの功績です。
どれだけヨガの難しいポーズができて、エネルギーの操作ができたとしても、瞑想が終わった途端に、感情的に取り乱したりしたら、意味がないんです。
そして、そういう人を僕は実際に見ました。
つまり、瞑想中とそうでない時の「差」が激しいんです。
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世界には色々な楽しみがあります。あるひとはケーキやチョコレートを食べることかもしれません。あるひとは恋愛をすることかもしれません。
ですが、ハートにとどまることができれば、それらの五感という感覚器官を通して得ることができる快楽を超える時が来ます。
それは誰にも奪えません。
年を取って歯が無くなれば味覚を通じて得られる楽しみを諦めることになります。どんなに容姿が優れていて、恋愛を楽しんできたひとでも、モテなくなる時がきます。
それはクンダリーニ・ヨガやチャクラ覚醒でも同じです。
身体が衰えたら、修行することができなくなります。
でも、ハートにとどまる修練は何歳であろうが、身体が動かなかろうが、いつでも、どこでもできるんです。
なぜなら坐法は関係ないからです。
最終的に外側にある何物もアピールすることがなくなり、ずっと何かを求めていた心=自我意識はハートの中に吸収されてゆくことになります。
それが「家」に帰る、ということです。
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長々と書きましたが、僕が言いたいのは、最終地点はハートにあるということです。
それが何か分かるまでは瞑想や座禅、ヨガを通過してゆくと思います。ですから、自分に合うものを何でもやってみてください。
それにチャクラを活性化させることは悟り(目覚め)の助けになります。たとえば、第六チャクラが活性化すれば、思考と感情から離れられます。
そして、どの道を進んだとしても、いずれは悟ることになると思います。
質問があれば、気軽にコメントしてください。