思考から離れ、新しい人生を始める。
昨日、祖母の米寿のお祝いをするために、子供たちと孫たちが集まって食事会を開いた。もちろん、僕も出席した。
僕はその席で場面緘黙に襲われた。
まるで自分が銅像にでもなったかのように、言葉が出てこなくなるのだ。幼い頃から場面緘黙を発症することで、
「どうして、人と同じように笑顔で雑談することができないんだろう」と自分を恥じたり、責めたりしていたのだけれど、今回はちがった。
もう超越してしまっていた。今の僕にはそういった自意識的な苦しみがもうほとんどない。
最近、恐怖とか不安、自責、悲しみ──そういった感情からほとんど離れてしまっている。
みんなと同じようにしゃべることができない自分を「高次の自己」がただ眺めている。そして、それを問題だとは思っていないのだ。
つまり、第六チャクラをセンターとする「高次の自己」が思考と感情を見つめている状態なので、
自分が場面緘黙で、みんなと同じように話せないことすらも、「ただ、そういうことが起こっているのだ」という感じで観ているだけなのだ。
でも、瞑想もワーク(修行)もしていなかった頃はこんなふうにはいかなかった。
もっとドラマに巻き込まれていた。
学校の教師や親に「何でみんなと同じようにしゃべることができないの?」と言われつづけていたせいで、「自分はダメなんだ」という自責の念を募らせて、それと一体化していた。
それが30年近くつづいた。
でも、今は、そういったネガティブな感情や自意識との一体化はもう終わった。
もっと言うと、僕はもう、人間的なドラマに飽きてしまったのだ。もう感情の世界にいたくない。僕はもっと高いところにいたい。
〇
最近、極端に思考がなくなってしまい、流暢にしゃべることができなくなった。
でも、驚くべきことは、この沈黙が今、僕の仕事になっているということである。
「あなたが黙って、静かにしていると何故か心が落ち着く」と言われる。
子供の頃はしゃべらないことで怒られていたのに、今度はしゃべらないことで褒められているのだ。
できることなら、タイムスリップをして、子供の自分を抱きしめ、「君はそのままで良いんだよ」と言ってやりたい気分である。
おそらく自閉気味の子供というのは、ある崇高な理由から、自分を閉ざさざるを得ないのだろう。それを使命と言っても良いのかもしれない。
その他大勢とちがう道を進む場合、ある程度、自分を閉ざす必要がある。社交性を捨てる必要もある。
そして、場面緘黙だった子供は大人になって、何かしらの「善きこと」を世界に提供しはじめる。
それまでは我慢。
キリストもブッダも自分の町や家族には受け入れられなかったのだ。でも、生きていれば、誰かと出会う。
そのひとがあなたの欠点を「反転」させるときがくる。「あなたのやっていることは素敵ですよ」と言ってくれるひとが現れる。
その時、自分は大いなる何か──神としか言えない何かにずっと導かれていることを知る。
未来に何が起こるかは分からないのだから、自分が持って生まれたものを信頼することだ。
〇
「反転」が起こった時、新しい人生がはじまる。再誕生だ。
再誕生するためには、思考と感情から離れないといけない。
それまではずっと輪廻しつづける。輪廻というのは、特定の思考と感情のパターンだ。
自責の念を抱えているひとは、自分を責め続け、悲しみを抱えているひとは「悲しい自分」という自意識のドラマを投影しつづける。
そのドラマを終わらせるには、「観照者」=「高次の自分」を目覚めさせなければいけない。