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僕たちは生かされているかぎり、生きる。

その集いの始まりに、僕たちはまず、身体と大地とのつながりを確認することから始めた。

いわゆる下腹に意識を置き、静かにしている。

意識がハラに落ちてくると、心が安定する。

頭頂から会陰の線がまっすぐに伸びると、「時間を越えた今」のエネルギーに身体がつらぬかれることが分かる。

普段の生活から、なるべく丹田を意識するようにすると、頭にのぼりがちな気が下にひっぱられるようになる。

いわゆる「デスクワーク」をしている現代人は、運動不足になり、気が上半身に集まりやすい。

荷物を持ち上げる時とか、掃除をする時など、丹田を意識しながら、身体を動かすように僕はしている。

今日は「感謝」と「生かされている」という言葉が出た。

M様は「今までの人生で起こってくる出来事は何一つとして不必要なことはなかったんだなぁと感じる」と言い、

S様は「何もかも明け渡して、自分で選択をしないで受け容れるようにしたら、神さまは愛そのもので、ずっと愛されてきたんだということが体感として分かった」と言う。

今年の初めから読者の方と対話してきて、「お金の問題」について相談されることが何度もあった。

様々な理由で働くことができない、だから、親や配偶者の稼ぎに頼っている、自分がどうしようもない、どうすれば良いでしょうか?という悩みだった。

その頃の僕は何とかその方々に助かってもらいたい、と思い、会話を繰り返し、得意なことを深堀りすることや、SNSで発信して商品を売ったらどうか?というような実際的なアドバイスをすることがあった。

でも、心のどこかで「自分がやるべきことはこれではない」という直観があった。

M様とS様が言うように、

「人生で起こってくる出来事は何一つとして不必要ではない。神としか言いようのない大いなる存在に愛され、生かされている」

のだとしたら、そのひとがいる現状というのは何も間違っていないのだ。

それでも思考は「自分はどうしようもない存在だ、最悪な状況にいる。」と不足ばかりに目を向ける。

でも、ちょっと待ってほしい。

少なくとも、僕たちを助けてくれる親や配偶者、あるいは社会保障があるのではないだろうか?

そのサポートに目を向けてみる。その時、自分は生かされていることを知るかもしれない。

不足しているものではなく、在るものに目を向ける。すると、感謝の心が自然に湧く。

ひとは自己啓発を学び、ビジネスセミナーに行って人生を変えることはできるかもしれない。

でも、全てのひとがそれをできると僕はどうしても思えないのだ。

ひとには向き、不向きがある。お金を稼ぐことが得意なひととそうでないひとがいる。

経済的に成功できるのであれば、それに越したことはないのだろうと思う。

しかし、どうしてもそういった「バリバリ頑張る」ことをできない人たちがいる。

そして、僕もそのうちの一人だ。

10代の頃から生きづらいな、と思ってきた。どうしてみんなと同じように、普通に生きられないんだろう?と。

でも、それでもなお、今一つだけ言えることがある。

それは、

僕たちがまだ生きている、

ということだ。どんな問題を抱えていたとしても、

僕たちは少なくとも、まだ生かされている。

生きてきたのではない、生かされてきた、という実感がある。

それはみんなも同じなのだ。お金を稼げない、自分はダメだ、と思っていたとしても、その人が今まで生きてきて、今もなお生きているのはまぎれもない事実だ。

つまり、

僕たちは生かされているかぎり、生きる。

M様は「植物たちは自分で生きようとしていない、ある時期が来たら、生まれ、ある時期が来たら、散るだけ」という趣旨のことを言った。

花や木は自分で生きようとしていない。

雨の日は天から降り注ぐ水を━━晴れの日は太陽の光をただ受けとめているだけ。

そこに努力のようなものはない。天からの恵みだけで勝手に育っている。

人間も同じなのだ。

自分を生かしてくれる源泉━━神さまとしか言いようのない力を信頼し、その力に明け渡すこと。

もし、親や配偶者に世話になると言うことがその人の運命であるのなら、それを甘んじて受け容れるということ。

M様は「頑張ること、成長することをしなくちゃいけないと思ってきたけれど、今はありのままにたゆたうことをしている」と話された。

今、病気かもしれない、身体のどこかが痛いかもしれない、お金の不安があるかもしれない、

それでもなお、今にたゆたう。

「たゆたう」ためにひとは瞑想をする。リラックスし、今に対する気づきを高める。

あるがままの今を受け容れ、くつろぐことができるようになると、ハートがひらきはじめる。

深いくつろぎのなかでハートがひらくと、外側の状況と関係なく、

「わたしは大丈夫なんだ」という体感が生まれる。

僕はその集いの間、

意識的に沈黙の時間を取ることをした。

言葉には限界があるが、静寂は言葉を越えた多くのことを参加者にもたらすことができる。

最後、S様は「わたしたちが黙っている間、参加者の方々とつながっている感覚がありました」と言った。

静かにただ気づいている時━━

気づこうとすらしない、純粋な気づき、そのものとして在る時━━

将来のあれこれを心配しているエゴ(心)はハートという源泉に吸い込まれる。

そこには静寂があり、現象の世界からの解放があり、解脱がある、そして、平穏がある。

平穏とは、外側の状況を変えることではない。

どんな難しい状況にいたとしても、意識を内側に向ければ、「故郷」は変わらずにずっと「ここ」にあったと知る。

Naokiさん、こんばんは。

今日も、素晴らしいひとときをありがとうございました。

おかげさまで、初めてNaokiさんとお話(瞑想)させて頂いたときから、ずいぶん身体が楽に、緊張から自然にほどかれているのを感じています。

こういう感覚は、自分でどうにかできることではなく自然に感じられてくるものだけに、そうある今がとても心地よく、感謝しています。
ありがとうございます。

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