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見えないものに対する想像力~サーリアホのオペラ「Only the Sound Remains ー余韻ー」
見えないものを見ようとすること。
聴こえない音を聴こうとすること。
遠くからやってきた神秘的な存在の気配を感じとること。
カイヤ・サーリアホのオペラ「Only the Sound Remains ー余韻ー」(6月6日、東京文化会館)は、そうした行為の大切さについての詩的物語でもあった。
いまこの世の中、何もかも可視化しようとする時代である。
たとえば、その最強のものが「数字」。
人生とビジネスのあらゆる局面において、数字ほど強いものはない。
毎日発表される感染者数、会社の売上、SNSのフォロワー数など、誰もかもが、目に見えるものの権化である「数字」に振り回されている。
だからこそ、目に見えないものに対する想像力が、いまほど大切な時はないと思っている。
今回の舞台で印象に残った一つに、森山開次のダンスがあった。神秘的で静的に書かれた音楽(フィンランドの民族楽器カンテレは効果的)に対し、突発的な激しさや苦悩を伝える、ときにスピーディな身体の動きは、見事なコントラストを生み出していた。
たとえば足の裏の柔軟な使い方。重心のなめらかな移動とバランス感覚にハッとさせるような非日常性があった。
第1部「Always Strong(原作:能「経正」)」では、目に見えない琵琶を演奏する男性音楽家の亡霊。
第2部「Feather Mantle(原作:能「羽衣」)」では、目に見えない羽衣をまとって舞を舞う天女。
異界からやって来たという点では同じでも、全く異なる二つの人格を、ミハウ・スワヴェツキ(カウンターテナー)の超越的な声と、森山開次のダンスが不思議なずれをなしつつも一体化していたところが、今回のプロダクションの優れた点の一つだった。
音楽的に面白い瞬間だと思ったのは、第2部で漁師の白龍(ブライアン・マリー、バスバリトン)が、「この羽衣はもらっていくぞ」と言うところで、4人のコーラスが囁きを絡みつかせるように合わせて歌うところ。
ここはバッハの「ヨハネ受難曲」第2部で、イエスが十字架にかけられて衣服をはぎ取られたところで「この服は裂かないでくじ引きで誰のものにするか決めよう」と合唱が兵士たちの立ち場になって歌う場面をつい連想した。
つまり、コーラスが人間の卑しさをも体現するという点において、バッハの手法を無意識的にかもしれないが、サーリアホは使っているように思った。
指揮者のクレマン・マオ・タカスはサーリアホのテキストに対する態度はアルバン・ベルクのように正確無比だと言っていたが、ここなどはそれが端的に示されていたと思う。
サーリアホは、能を自分はいったいどれほど日本の皆さんに比べると果たして理解できているか...という意味のことを言っていた。演出のアレクシ・バリエールは、自分たちはフェイク・ジャパニーズ(日本もどき)のものを作ろうとしているのではない、とも言っていた。
ここは大事なポイントである。能の原作に立ち返り、それを参照することも大切だが、彼らは能をあくまで自分たちのクリエーションのための新たな契機にしたのである。
この二つの物語によるオペラを観て、むしろ私が考えたのは、一の谷の合戦で命を落としたある武士にとって、亡霊となってもなお、どれほど音楽が大切なものであったかということ。
三保の松原で暮らす一人の漁師にとって、羽衣を返してあげた代わりに、天女の舞を観たという神秘的体験が、どれほど彼の人生を変えるほどの幸福をもたらしたのかということ。
これは、人生と音楽、人生と舞踊の関係についての物語でもあった。
今回、オペラ「Only the Sound Remains ー余韻ー」の上演予定を知ったのは昨年末のことだった。
以来、何とかその実現を願い、サーリアホへの直接取材も積極的に買って出て、ONTOMOでのインタヴューや鼎談、イントキシケイト(Mikiki)の記事
、東京文化会館の広報誌や当日プログラム冊子など、ほとんど当事者のような気持ちで、各方面に事前記事を書かせていただいた。
幸い、困難を乗り越えて無事に上演がおこなわれ、会場も盛況で本当に良かったと思う。