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【フジテレビショック】時代に敗北するということ

ある放送局が、日本の放送史に名を残すであろう大惨事を引き起こしている。この出来事の本質について、僕なりに考察を深めてみた。

今回の騒動は、あるタレントの性的スキャンダルに端を発しているが、その根底にあるのは放送局の腐敗というよりも、時代に対する敗北ではないかと僕は考えている。つまり、その放送局が今の時代において必要とされない存在にまで落ちぶれてしまっているということだ。

その放送局は、「楽しくなければテレビじゃない」をモットーに、1980年代から娯楽エンタメ路線をひた走ってきた。しかし、フェイクニュースなど何でもありのニューメディア(SNSや動画サイト、匿名掲示板、ブログなど、インターネットメディア全般)に対するアンチテーゼとして、オールドメディアたるテレビが求められている昨今、その放送局は時代のニーズとあまりにも乖離してしまっている。そのため、視聴者から歓迎されなくなっているのだ。今の日本が求めているのは、まさに他の放送局のような、権力に立ち向かう姿勢を持ったマスコミであって、その放送局や別の放送局のような娯楽ファーストのマスコミではない。

この記事をご覧になっているオタク諸君に分かりやすく例えるならば、その放送局の状況は、萌え絵丸出しの学園ドラマ物のアニメやゲームのようなもの、あるいは島国仕様のサイズの小さい普通自動車や、ライトが人間の目ん玉みたいに大きな車やバイク、高い車種でもないのにやたらエンジン音がうるさい車やバイクのような存在だと言えるだろう。かつては時代の最先端を走り、多くの人々を魅了したコンテンツが、時代の変化とともに陳腐化し、受け入れられなくなってしまったのだ。

かつて、テレビは一家団欒の中心にあり、情報や娯楽の主要な供給源であった。しかし、インターネットの普及により、人々はいつでもどこでも好きな情報にアクセスできるようになった。SNSや動画サイトは、個々人の興味関心に合わせたコンテンツを提供し、テレビのような一方的な情報伝達ではなく、双方向のコミュニケーションを可能にした。その結果、テレビ、特に娯楽偏重のテレビは、その存在意義を問われるようになったのだ。

今回の騒動は、その象徴的な出来事と言えるだろう。仮に、そのタレントのスキャンダルがなかったとしても、海外資本の株主が激怒しなかったとしても、放送局の腐敗がなかったとしても、その放送局が衰退していくのは時間の問題だったと言わざるを得ない。時代の流れに逆行し、変化を恐れ、過去の成功体験に固執し続けた結果、時代に取り残されてしまったのだ。これは、その放送局だけの問題ではなく、変化の激しい現代社会において、あらゆる組織や個人に当てはまる教訓と言えるだろう。時代に敗北するとは、変化を拒み、過去に囚われることなのだ。

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