3. 鶴見俊輔の「限界芸術」との違い
「超遊戯主義」の話をしていると、鶴見俊輔の「限界芸術」に似ているのではないかという意見を聞くので、念の為。
鶴見俊輔の「限界芸術」という概念は、既存の芸術の枠組みや制度を超え、社会や日常生活の中で人々が自らの表現を発見し、新たな価値を見出すことを目指している。彼は芸術がエリートや専門家のものであるべきではなく、誰もが表現者でありうることを強調した。たとえば、落書きや即興的なパフォーマンス、日常における小さな創造的な行為にも「限界芸術」としての価値を見出し、形式に縛られずに自由な発想で生まれる表現を肯定している。限界芸術は、アートと日常の境界を曖昧にし、誰もがアーティストになりうる可能性を示唆している。
一方、「超遊戯主義」は限界芸術の考えにインスパイアされつつも、さらにその枠を広げ、遊びや「身体性」を中心に据えた独自の視点を持たせている。限界芸術が「表現の自由さ」に重きを置くのに対して、超遊戯主義は遊びを通じて身体と感覚を再発見し、社会との関わりを新たに築くことを目指している。具体的な一つの例には、伝統的な日本の遊び(鬼ごっこや竹馬、けん玉など)を介して、身体を使った経験を重ね、言葉や論理では捉えきれない共感を育み、「私 - 汝」という関係性を再構築することを意図している。
また、限界芸術が即興性や日常の創造性を尊重するのに対し、超遊戯主義は「遊戯」という視点を通じて、意識的に身体性と感性の重要性を強調している。鶴見のアプローチが日常における芸術的発見や個人のクリエイティビティを重視する一方で、超遊戯主義は「遊び」を通して身体と心の統一を試み、社会的な関係性を修復しようとする点で異なる。つまり、限界芸術が「芸術の民主化」を志向するのに対し、超遊戯主義は「身体性を取り戻す」ことで、根源的な人間らしさや他者とのつながりの質を高めることを重視している。
さらに、限界芸術が既存の社会構造への批判的視座を持ち、形式にとらわれない表現を求めるのに対し、超遊戯主義は批判だけでなく、共感と体験の循環を通じて自己と他者との関係を再構築し、社会全体のあり方に変革をもたらす「遊び」を重視している。遊びとは、本来ルールや競争だけでなく、共感と協働によって成り立ち、互いの違いを受け入れる姿勢や豊かな関わりが生まれるものだ。
超遊戯主義は、単に「楽しむ」ことに留まらず、「ながら身体」や「テックトリップラー」といった現代社会の現象から解放される手段としての遊びの可能性を追求する。身体を解放し、共感を育むプロセスを通じて、現代社会の孤立感や疎外感から人々を解き放ち、新たな生き方や価値観を発見する道筋を示したい。この点で限界芸術と対比することで、超遊戯主義の本質がより明確に浮かび上がると考えている。
限界芸術が社会の中で芸術の意味を問い直し、自由な創造を促進するものであるのに対し、超遊戯主義は「遊び」を通じて身体性と共感を高め、共鳴する生き方を提唱している。
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