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本は本のままでいてほしい

今、巷にはオーディオブックというものがあるとのこと。

本を読む代わりに、朗読されたものを聴くことで”読書”を”効率よく”行うもの、と認識している。

個人的には、それは読書ではないな、と思う。

だって読んでないではないか、という厳密な言葉の揚げ足取りではなく、”読む”という行為の捉え方の問題なんだろうなと思うのだ。

私の場合、本を読んでいる際には脳内にその本の文字列が別の形に変換されることで自分の意識に取り込まれている印象がある。

具体的に言えば、読んだ文字が脳内で映像化されたり、音声化されたりするということだ。

ならばオーディオブックは文字列の変換を代わりにやってくれるから便利かというと、そうはならない。

なぜなら、文字列を別の形に変換すること自体が、私にとって読書の楽しみだからである。

つまり、オーディオブックは私から読書の楽しみを奪う媒体なのだ。

先に読んだ本をオーディオブックで聴いたら、自分の脳内の音声との差異に戸惑うことだろう。

読んでいない本をオーディオブックで聴いたら、その本を読む際にオーディオブックで聴いた音声が邪魔になってしまう(自分の意のままには変換できない)だろう。

こんなこと言って、オーディオブックは聞いたことないんだけど、あえて聴こうとも思わない。

それは、ドラマや映画、アニメなどで映像化されるときにも起こり得ることだ。

ただし、個人的には、映像化の際には脚本という”クッション”が挟まっていることが明確なので、読書で得た印象と全く異なるものになることに対する抵抗が若干弱まる。

キャスティングに納得がいけば、それはそれとして楽しめる。

つまり、本が原作となって映像化されても、それは別物として割り切れる感覚が、自分の中にはあるようなのだ。

とはいえ、今まで読んだ本の中で映像化そのものに対して拒絶反応を起こしてしまった作品がある。

その代表格が、伊坂幸太郎・著「アヒルと鴨のコインロッカー」である。

引っ越したアパートの隣人に本屋の襲撃を持ち掛けられる「僕」の話と、本や襲撃につながる2年前の出来事を語る「わたし」の話が、「河崎」という共通の登場人物を軸に交錯しながら進んでいく物語である。

最初はなかなかつながらない2年の空白が、物語が進むにつれてどんどんとつながっていくのだが、最後の最後にとんでもないどんでん返しを食らう。

どんなどんでん返しかは言えるはずもないが、そのどんでん返しは映像化不可能だなと思い、小説というジャンルの奥深さを再認識するとともに、作者・伊坂幸太郎にハマってしまう原因となった作品なのだ。個人的に。

ところが、この作品、のちに映画化される。

映画化のニュースに触れて驚きながらも、「観たい」とはならなかった。

あのどんでん返しの衝撃は、そのまま映像化されるはずもなく、映像化されることであのどんでん返しの衝撃が薄れてしまう。それが嫌だ。

そう思った。

もちろん、脚本の力によって、映画「アヒルと鴨のコインロッカー」は素晴らしい作品になっているのかもしれないが、私にとっては、本だからこそ得られた衝撃を大切にしたい気持ちが揺るがない。

伊坂幸太郎作品は度々映像化されるのだが、どうも映像化に乗れないものがある。個人的に。

「陽気なギャングが地球を回す」は、映像化自体はむしろ向いているだろうと思うのだけど、キャスティングが個人的に脳内でしていたキャスティングとずれてしまっていて(俳優陣が個人的に気に入らないというのではなく、自分の思い描いたキャスティングとイメージが合わないということ)観る気が薄れてしまった。

「マリアビートル」は「ブレットトレイン」と名を変えてハリウッドで映画化されたが、もうこれは別物と思わざるを得ない脚本になっていることが明白で、「マリアビートル」の映画化として受け入れるのが個人的にできないという印象である。

と、「陽気なギャングが地球を回す」と「マリアビートル」の話は余談だけど、何が言いたいかというと、私は本を文字で読みながら自分で(ある意味勝手に)脳内で音声化・映像化しているタイプの読書家なので、徒にオーディオブックとして音声化したり、映画やドラマ、アニメ化で映像化しても、なんだかしっくりこない場合があるよ、ということだ。

自分でよくわからなくなってきたが、賛同してくれる人なんているだろうか。

本が本のままでいることに、不満も不足もない。
本は本のままでいてほしい。

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