失うのが死ぬほどこわい、は愛する人をなくしたトラウマ※暗め注意
もこがきのうの夜体調が悪そうだった。
23時になろうというのに歩き回って寝ないし、なんだか呼吸も荒い気がする。鼻はかわいているし、横になっているのに身体をプルプルふるわせている。
そういえば昼間から少し様子がおかしかった。
いつもは昼寝をしている時間に歩き回っていたし、そのときもやっぱり鼻がかわいていた。
眠いだけなのかな?と思ったが、手足は冷たくて眠い時の体温じゃない。
でもごはんもぜんぶもりもり食べたし、散歩もいつもみたいに歩いていたから、元気なのだろうと思ったのだ。
23時になって身体をプルプル振るわせているもこをみてパニックになったわたしは、夜間やっている動物病院にいくつかかけてみたけど、むなしく留守番電話に切り替わるか、コール音がつづくだけだった。
車で1時間かかる夜間病院は、夜中だというのに外来で混んでいて、すぐに診てもらえないそうだ。
パニックになった頭でも、電話越しにのんびりした声でお姉さんから夜間帯の料金を聞いた時、まあまあの値段の高さに急に冷静になった。
さいわい、震えは止まっているし、今はそんなに呼吸も荒くなさそうだ。
「明日の朝、受診されても大丈夫かと思いますよ」
のんきな声で続けるお姉さんの声に、1時間かけて車を飛ばして、なおかつこんな夜中に外来の患者さんたちにまぎれて待たされる気にならなかった。もこの老体にも負担だ。
「明日の朝まで様子を見ます…」
どうにも寝つける状態じゃないのに、朝までなにもできることがない。朝まであと、6時間。病院の受付時間までは、9時間。こんなに早く朝が来て欲しいと思ったのははじめてだった。
でもとりあえず、散歩に連れて行って少し水を飲んだら、身体の震えと歩き回りもおさまって、もこはやっと寝る気になったみたいだった。
このまま朝まで何事もありませんように。ちゃんと寝てくれますように。
そう祈りながらわたしも寝た。
こういうときに朝まで一睡もしないとかではなくちゃんと寝れる自分の神経も、喜んでいいのか悪いのかよくわからない。
朝になって、丸まって寝ているもこをおそるおそる見にいくと、いつもどおりの呼吸の仕方で、おなかを上下させながらすやすや眠っていた。
そのまま様子を見ていたかったが、ひとまず午前中の仕事だけさっさと片付けたら急いで昼に帰ろうと思い、後ろ髪を引かれる思いで仕事に向かった。
午前中は生きた心地がしなくて時計の秒針が進むのが死ぬほど遅かった。なんで今日、予定なんて入れちゃったんだろうな。
いてもたってもいられなくて、予定を巻きで繰り上げて、急いで家に帰って何事もなく丸まっているもこを見るまで、ずっとちゃんと息が吸えない感じがしていた。
起こさないように家にもこを残してお昼ごはんを食べに行ったお店で、やっとまともに呼吸ができた。異常なくらい身体が緊張していた。
わたしはこんなふうに、誰か大事なものや人を失いそうになると思うと気が狂いそうになる。
たぶん何回も何回も、子どもの頃から、家族とか、仲の良かった人を失った体験があるからだ。
大切な人がいきなりいなくなるというのは、子ども心にとても怖くて、急にどこか自分一人だけの場所に放り出されたようなすごく心許ない気持ちになって、二度とそれが起こってほしくなかった。
そんな経験を繰り返して、大切にしてもどうせ失うなら、最初から大切なものを作らないほうが悲しくないじゃん、と思っていたので、友人にそう言ったら「そんなの悲しいよ」と言われた。
「いつかは失うから、今大事にするんでしょ」
わたしは毎回彼らを助けられなかったとき「自分のせいで助けられなかった」と思っていた。
だから、たとえばもこがわたしが寝ている間とか、仕事に出かけてからちょっと目を離したすきになにかがあったとして、「わたしのせいで助けられなかった、わたしのせいで失った」と思いたくなくて、ごはんも喉を通らないほどになってしまう。
でも、わたしは本当は知っている。
「できることはしたけどいつかは失ってしまうことはわかっている」と思いながら、本当に失ってしまったときの辛さよりも「このまま失ったら後悔する」とわかっていながら何もできない辛さの方が、何倍もしんどいということを。
だから今、わたしはもこと一緒に住むことを選んでいるのだ。少なくとも近くにいれば「なにかはできる」のだから。
16歳のもこは一瞬一瞬が、人間の時間とは比べ物にならないくらい、すごいスピードで過ぎていく。
健康体でもないし、毎日1日でも長く元気でいてほしいと思う、ほとんど祈りに似たような気持ちを感じながらの毎日だ。
だからこそ、その失うときの瞬間までわたしがそばにいて、できることは全部して、悲しいことも全部向き合おうと思った。そうすればきっと、「失うことはわかっていたけど、だからこそ毎日大事にできた」と思えると思うから。