家出をした息子への祈り
土曜日の朝、夜勤あけの息子に朝ごはん(晩ごはん?)を作る。
簡単なものだけど、カラフルな食材を使って、フルーツや生野菜も添えて。
メンタル疾患をもっている彼は、薬の副作用からか、甘いものを好み、自分で買ってきたスナックにちょくちょく手を出す。だから出来るときには、なるべくバランスの取れた食事を用意するようにしている。
私はソファにもたれて、一人静かに食べている息子を眺めながら、夫が入れてくれたオーツミルクの入ったコーヒーを味わっている。朝の柔らかな外からの風と、光。家の中の観葉植物が光に当たって、みずみずしいグリーンが輝いている。まるでこの空間を一緒に祝福してくれているように感じる。
なんて、幸せなんだろう。この瞬間、これ以上あり得ないくらいの満たされた気持ちを感じている。
9年前、彼が病気を発症し、しばらくしてから、彼は私の食事を一切食べることができなくなった。インスタントラーメンやファーストフード、買ってきたスナックしか受けつけなかった。ある日仕事から戻ると、ダイニングテーブルの上に、彼のために作っておいたおむすびが、ぐちゃぐちゃに潰され、そこに箸が突き立てられていた。
今、こうして彼が私の作ったものを平らげて、「ありがとう、美味しかったよ」と、微笑んでくれる。一緒に食事を囲むことや、そんな日常のありふれたことでさえ、私には奇跡に思え、胸が躍る。これは決して当たり前なんかじゃないといつも思う。
彼が20代の始めに、何も持たずに家を出て、行方不明になっていた数年間。何が一番の私の支えになっていたかというと、一つの祈りだった。
たまたま手にとった「マーフィーの法則」で有名な、J・マーフィーの名言集の中に、「家出をした息子への祈り」というのを見つけた。そんな祈りが必要なほど、世界中では家出をする息子がいるのだろうかとびっくりした。私だけではないのかもしれない、と思った。
息子さんが家出をしたらこう祈りなさい。
「私は息子を完全に開放してやります。彼はすべての点で神によって導かれるでしょう」。このように祝福してあげなさい。あなたがこうしていると、起きることはすべて悪いようにはなりません。
時を同じくして、突然夫が家を出て行ってしまったという知人がいた。そして彼女は、SNSに彼女の祈りを記していた。
I bless him on his journey. I believe in him and trust his process. I honor his soul. (私は彼の旅を祝福し、彼と彼の旅路を信頼します。彼の魂を敬います。)
それは私の心にとても沁みたので、私はマーフィーのものに、この祈りを付け足した。
そして私はその祈りを毎日唱えた。
始めは「言葉」だけだった祈りが、いつしか私の血肉になったとき、私は徐々に心に落ち着きを感じるようになった。家じゅうのものを破壊し、包丁を目の前に突き付けていた彼を、恐れる気持ちはまだ残ってはいても、もうこの人生をどうこうしようとは思わなくっていた。私の哀しいほどの無力感は、次第に重力を伴わなくなっていた。
数年後、元気で、優しい笑顔を取り戻して、息子が帰って来てからも、色んなことがあった。けれど、「この人生をどうこうしようと思わない」という根底にあるものが、今度は私を助けてくれた。投げやりでもなく、虚無感でもなく、それは逆に暖かく私に寄り添うものだった。木から離れた木の葉が、それ自身でどこへ着地しようかと企めば、それはとても困難なことだろう。
他の人々と同じように、私にもこれまで様々なことが起こったけれど、いつも最後に人生は、この世界は安全で、優しい場所だと教えてくれた。それは全てが、私の思い通りに着地したというわけではない。そんなことはあり得ない。けれど、私の「望み」の背後にいつもあり、核となっている、「心の平安」は、最終的にいつも私を訪れてくれたと思う。
丁寧に食べ物を口に運んでいく息子を眺めながら、ソファの上で私は、自分がこの幸せに執着していく様子を眺めている。
この様子がずっと続けばいいのに、と今の瞬間から離れて、未来を思っている。
人は苦痛を感じると、この苦痛から離れたくて苦悩し、幸せを感じれば、この幸せが続くようにと苦悩する。
人とはそういうもの。
けれど、「人生」、それ自体はそうじゃない。ひとつに決して留まらずに流れていく。いい出来事と悪い出来事、そういった判断が「人生」というものにはないのだから。
万策尽きて、すべてを何かに明け渡すしかないとき、
祈りにゆだねて生きてみるしかないとき、
それはもしかしたら、人生からの特別な招待状なのかもしれないね。