もっと、もっと喜ぼう。
雨が続いている。
北カリフォルニアは、何年も水不足で誰もが不安に思っていた。
だから、インスタやフェイスブックを覗けば、
「誰がこんなに雨を望んだんだい!?
俺たちみんなだよな」
なんていうポストを幾つも見つけた。
それほど北カリフォルニアの住民は、雨を望んでいた。
実は、洪水にもなりかねないすざましさで!
だから、道路にまで水が溢れ、木が倒れ、あちこちで道路が封鎖されて、予約していたお客さんが来れないどころか、従業員の出勤もままならないことに。
やれやれ、と首を振るスタッフに私は笑って返す。
「雨を望み続けてきたのは私たちなんだからね、不平はなしね!」
望み、ということに関すれば、
こんな雨のように、人の望みというのは、あちこちで叶っているものなのだ。
私たちは、どうして叶っていることに気づかないでいるんだろう?
望んだことを忘れてしまっているか、
以前の望みが現在の望みではなくなっているからか、
自分が思ったような、叶い方ではなかったからか、
望みを叶えてくれる天使も、これでは報われない。
立ち止まって、見渡してみてほしい。
あなたの周りに今あって、以前にはなかったもの。
私の場合・・・
スタッフが、笑顔で楽しんで働ける場所を作りたい。
朝日が見えて、日当たりが良く、菜園ができる大きな庭のある、浴槽の広い家に引っ越したい。
仕事以外、何もしたくない。(家事から解放されたい)
会社の経理から自由になりたい。
何があっても、なくても、安心して暮らしたい。
数えればキリがない、
叶ってきたこと。
しかも、それらほとんどは、私が一発発起してやったことではない。
どれもが自然な流れでやってきた。
「私」の手柄なんてどこにも見当たらないのだった。
それらはいつのまにか自分の人生にやってきた。
自我は、「私が叶えた」と、手柄を立てたいのだろうけど。
そして、「こんなこと、もう望んでないよ」と肩をすくめてもいる。
私の夫は店を開けて、数年後にメニューの扉ににこの言葉を付け加えた。
レストランメニューに関連しない、唐突すぎるこの言葉に、意外にも心打たれるお客さんは多かった。
そう、ある日、ファンファーレがなり響くような、
宝くじが当たるような、
志望校に受かるような、
そんな望みもあるけれど、
野に咲く花のような、日常の望みというのは、気づかれないうちに咲いている。
あまりにも自然に。
そして人生のイベント的な望みに対して、日頃、浮かんできた望みというのは、より、暮らしの質に、クオリティに根ざしているのではないだろうか。
だから、私たちに出来るのは、この日常に、もっと言えば、この瞬間に、目の前にあるものに、気づき続けることなのだろう。
そして、もっと、もっと、喜ぼう。
雨が落ち着いたら、近所の湖に散歩に行こうと夫と話している。
どれくらい水位が上がっているかを見るのが もちろん楽しみではあるけれど、
あえて何も期待はせずに。
自然がもたらした、そのままを受け取ることができるように。
あるがままを、喜べるように。
雨がくれた気づきの記事は、こちらでも。