房総の海岸で暴走兄弟が空を見上げた夏の日
その日、私たちは、乗り過ごすことなく無事に、安房小湊駅についた。
息子たちは先頭まで走って、特急わかしおと記念写真を撮り、ピシッと敬礼で送り出した。
駅には、見たこともない自動改札機があった。
駅員も客もいない駅で、キャッキャと騒ぐ。
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息子たちも私も、銭湯や温泉が好きだ。
前回、温泉旅行に行ったのはもう2年前で、今年こそはもう一度行こうと、春先から話していた。
行き先は、スパ三日月安房鴨川。
片道約3時間の電車旅。乗り換えが4回。
健康保険組合の夏期保養所の抽選に当たって格安で申し込んだのだから文句は言えないが、遠い。
到着前から不安だらけだ。
彼らは成長していた。
「この電車に乗り続けたい」と無茶を言うことも、乗車した途端「トイレ!」と走ることも、「飽きた。降りたい。」とふて腐れることもなくなった。
幸先の良いはじまりだ、と思われた。
いや、雲行きが怪しい。
東京は何日かぶりの猛暑日が予想されていたのに、安房小湊上空はどん曇りだった。
しかも、台風前のような風が吹き荒れていた。
駅前には、何もない。
案内にあった「シャトルバスの送迎」も見当たらない。
徐々に不安で顔がくもり始める息子たち。
観光案内所の人に聞くと、「ホテルはすぐそこに見える建物だから。歩きなさい、お兄ちゃんたち。」と言う。
彼らの大好物の「海鮮のランチがあるお店はありますか?」と尋ねれば、「この辺一帯、お盆明けで休業なの。」と言う。
息子たちの顔から一気に生気が消えた。
道沿いにずらりと並ぶ「臨時休業」の看板にため息をつきながら、ホテルへと歩いた。
唯一開いていたお店は、長蛇の列だ。
待つ間にも容赦なく海風は吹き荒れ、身体はベトベトだし、口の中がじゃりじゃりしてしょっぱい。
昼食にありついたのは、午後2時過ぎだった。
満腹になり、また歩き始める。
すると突然、次男が「ぼくは あしを けがしたようです」と棒読みで言った。
仕方なく、25㎏の次男を抱き、蛇のような冷たい目で弟を見る長男と、ホテルまで歩いた。
入口が近づくと、「あしをけがした」次男は「わーい!」と駆けて行った。
着いて早々、兄弟は「プール!」と声を揃えた。
チェックインもしていない。
部屋でひと息つきたい…という私の思いごと、別館のプールに引きずられていった。
盛り上がる彼らだが、顔を水につけられない。
レンタルの幼児用うき輪で、プカプカと2時間近く、ただ流されていた。
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やっとの思いでチェックインしたのは、夕方6時のことだ。
9階の客室最上階の角部屋。
部屋に入ると正面は全面ガラスのオーシャンビューだった。
キャーと、息子たちが歓声をあげた。
荒れる海も、室内から見下ろすのは気持ちが良い。
海をじっと見つめていた長男が口を開いた。
「ぼくさ、ぼくさ」
「なぁに?」
「ぼくぁーー幸せだなぁー!!」
うっかり加山雄三が9歳の男の子に憑依してしまうほど、海は雄大だった。
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夕食はバイキング。
これも彼らにとっては夢のような時間だ。
刺し身、寿司、寿司、刺し身、刺し身。上品さの欠片もない夢の山盛りがテーブルに置かれた。
しかも、二人できれいに平らげてしまった。
満腹かと思いきや、次男が一点を見つめ震えている。
視線の先には、チョコレートファウンテンがあった。
「チャーリーとチョコレート工場がある…」という彼の言葉に、嫌な予感しかしない。
長男に「テーブルで待ってて」と言い残し、次男をぴったりマークした。
並んでいるうちから口がパクパクしている。
「このマシュマロをそっと入れるんだよ」と何度かレクチャーしたが、目はチョコレートの泉にロックしたまま、全く話を聞いていない。
テーブルを見ると、長男がまた刺し身をもってきて食べている。注意しに戻る余裕はない。次男から離れれば、頭からチョコレートに突っ込むだろう。
仕方なくギッと長男を睨むと、ウインクが返ってきた。
そんな一瞬の隙にも、次男は棒にさしたマシュマロを腕ごと突っ込もうとしている。
「そこまで!!」と牽制したが、指についたチョコレートを味見している次男の口は、もう真っ黒だった。
テーブルまで待ちきれずに皿の半分ほどを堪能した次男は、満足げに席に戻った。一方、長男の様子がおかしい。
「お刺身、このくらいにしておこうかな…」の言葉の後、マーライオンのように戻した。案の定である。
係の人は慣れた様子で「食べ過ぎですねぇ」と笑って処理してくれて、心から救われた。
部屋に戻った彼は「お腹空いた。」と言った。
やっと腰を落ち着けてひと息、と思いきや、今度は「温泉に行こう!」である。
そう、たった一泊の家族旅行。力をふり絞って楽しまねばならない。
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最上階にある露天風呂は、最高のロケーションだった。
風は止まない。高所のせいか一層強く感じる。
8月だというのに、露天風呂で凍えた。
子どもたちは「寒い!寒い!」と、笑っている。
疲れにきたようなものだ、と私は苦笑いした。
そのとき。
ドン!と爆発音がした。
目の前に、花火が上がった。
予告されていなかった大玉の光に、息子たちも私もただただ空を見上げた。
皮膚をビリビリと伝う轟音。
頬に熱を感じる閃光。
漂う潮の香りに、微かに火薬の臭いが混ざる。
3人とも言葉が出ない。
しばし静かになった後、兄弟が顔を見合わせて口を揃えた。
「来て、よかったね」
本当によかった。
すべての疲労が、39度の露天風呂に溶け出していった。
こうして、私たちのこの夏一番、長くて短い1日は、終わった。
帰った日の夜中、次男が寝言でボソッとつぶやいた。
「安房鴨川が終点です」
また行こう。
終点までは、まだまだ遠い。