トイレの神さまはホントにいるかもしれない
汚れたものは、汚いとみなす心がなければ汚く映らないのでは?
汚いのは、汚れていることそのものじゃなくて。むしろ汚いと感じる心を放っておくことなのかも、とふと思った。
以前、友人からトイレ掃除にまつわる話を耳にしました。基本、トイレって不浄の場所としての認識が強い場でもありますよね。なので、ゴム手袋で掃除をするのが一般的だと思うのですが、そこをあえて素手で行うことをひとから励行された、というのです。
話はもう少しアドバンスへ。
(お食事中の方はスキップしてくださいませ)
便器周りの裏のヘリだけでなく、水の溜まった穴にまで手を突っ込んで洗ってみたら「人生が変わるらしいよ!」みたいな話にまで飛躍しました。
これって、できる?する?という話で友人と盛り上がったわけです。
で、わたしなりに素手でトイレを掃除する可能性について思いを巡らせてみました。
排泄物が流れる場所をキレイに磨き上げる、かぁ。普段はブラシや雑巾、ペーパーなどに頼っているわたし。それをあえて素手でいく勇気。「人に嫌われる勇気」と比べてどっちが勇気のいることなんだろう。
いけなくはないけど、そんなに心も躍らない(笑)。でもできないこともないかも。ひとまず、未開の地へ旅立ってみることにしました。
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今回はより磨きあげる意味で、劇落ちくんを登板。裏の裏まで擦って、見えない汚れを根こそぎ落としまくる作戦です(CMみたい)。
さすが、ゲキ落ちくん!ブラシよりも強力に磨き上げてくれます。便器内部やヘリあたりまでは躊躇なく進みました。が、問題は汚物が吸い込まれる水の溜まった穴部分です。手を突っ込んで良いものかどうか、少ないながらもそれなりに持ち合わせた理性が手を動かすのを止める…のであります。
どうしようかと向き合うほどに何でここまでしようとしてるの?というもう1人の私の声も聞こえます。ああ、このままでは脳内会議が白熱しそう。
「そうだ!考えるから出来ないんだわ!」一旦マインドをリセット。開き直って「いつもやってますが、何か?」なフラットな立ち位置を固め、一気に手を突っ込んでみました。
瞬間的にやってきたのは「おっ!」というなんとも言えない感触や感情です。うおー、なんでここまで!とも思いつつ、擦るほどに「ここまでやったからにはツルツルにするんだもんね!」の気合いがグングン上昇↑↑↑。水はねを気にして目を瞑ったり、臭いを気にして息を止めたり。五感を閉じながらも任務に集中しました。
すると…目を瞑って仕舞えば、キッチンの水仕事とさして変わりはないような気分になってきたから不思議です。確かに「水の中に手をつけている」という意味では両者に大きな差はありません。
作業が進むうちにだんだんと「汚い」ということを忘れて「汚れを落とす」ということに意識が向けられていることに気づきました。もはや「汚い」といった概念自体が消失しているのです。
擦るほどに便器内の水は濁っていきます。が、思ったよりも無臭でしたし、水自体に親しみが湧いてくるというのか、忌み嫌うほど汚いものだと思わなくなってきました。
例えるなら、子供の頃にした泥遊びみたいな感じに近いかな。服を汚したら怒られるかも…な遠慮がちな遊び方だったとしても、没頭しているうちに汚れなんて気にならなくなる、みたいな爽やかな感覚というのでしょうか。
あのときの泥水と、目の前の濁った水と。その差ってもしかしたらさほど違いはないんじゃないかな?そんな気になってきてしまったのです。
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汚れは汚れでも、泥はセーフで便はアウト?理性はそうジャッジを下しますがもともと便は私たちの体内にあったものなのだから、泥よりは親しみを感じてもよさそうです。
いや、そもそも私たちが口にする食材のほとんどは土壌で育まれてますよね。土には子供の頃に遊んだ記憶以上に私たちを育て上げてくれた先祖代々からの思いや大いなる自然の恵みや叡智もいただいているはず。そうなると...。汚れってそもそもなんだろう?どこからが汚物でどこからが食物でどこからがありがたいと感じるポイントになるのか。その境界線の曖昧さに、うーむ、と考え込んでしまいました。
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つまり私たちは「汚い」という知識や概念を大人になるにつれて植え付けられてきただけで、それそのものには、元来汚いもキレイもないんだということが浮かび上がってきてしまう。なんと、壮大な自然と人間とのストーリーなのでしょう。
で、せっかくなのであともう一歩、下水への考察を進めてみました。
今回は自分の家のトイレを素手で掃除したわけですが、果たしてこれが駅のトイレでも同じことができるかな?という疑問です。
自然と湧き上がる、家族だからOK、他人だからNGの壁。あぁ、自分の中にある差別的な考え。ちょっとそれは遠慮したいかもしれないという本音の裏では、やろうと思えば出来ないこともないかも、なチャレンジングな気持ちも少し。
人と人ってそもそもそんなに割り切れるものなのだろうか。いまある関係性を観察していけば「わたしと誰か」との間柄だって、好き嫌いを超えた部分での人間古来のつながりをみて取れる(はず)。ここまでが許せてここからは許せません、みたいな境目だって、さっきの泥と汚物と同じくらいすごくあやふやな定義ですよね。
それでも、つい脳裏をよぎらずにはいられないバイ菌への脅威。公衆トイレの方がとんでもない汚物が紛れ込んでる可能性が家よりも高そうだと勘ぐってしまうのも、他者という訳の分からない存在への恐怖心の現れなのではないかな。
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相変わらず思考のおしゃべりは止まりません。
が、あれこれ考えを巡らせていたところに
ふと舞い降りてきたのが
「あぁ、そういうことか!」という閃きでした。
確かに素手でトイレ掃除は人生を変える、かもしれないです。でも、それは「わたし自身の人生」を変えるというよりは、思考や価値観、見え方の部分に強力に働きかけてくるような意識としてのパラダイムシフト感に近い感じ。
その上でこれまで見えてた人生が今までと同じように見えなくなるという意味で「人生が変わる」ということらしいです。あくまで、わたしの経験値からの話ですが。
頭で考えているレベルでの「できるよ、そのくらい」と、実際に手を動かしての「わかった」には計り知れない差があるんですね。やってみた本人にしか分かりえない確実な何かが得られるのは確かです。
命に支障のないレベルなら、人生勉強という意味でも「素手でトイレ掃除」はトライしてみるのも良いのかもしれないですよ。(とはいえ、他人に無理強いすることでもないとは思う)
なんてことを爪の間まで石鹸で丁寧に手を洗いながら考えていたのでした。
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これは、去年の秋の昼下がりの話。下(しも)のお話なので、書こうか迷いつつメモ程度にしていた熟成下書きを蔵出ししてみました。不快な思いをされた方がいらっしゃったらごめんなさい。
ちなみに。とある俳優のおばあさまはトイレのちょっとした汚れは素手で拭き取るのは日常茶飯事だと。この習慣に幼少期から馴染んできた俳優ご本人(みんなもご存知イケメン俳優さんです)も、素手で便器をささっと掃除するのは「もはや気にならない」レベルだそうで。す、すごいな。余計に好きになっちゃうわ。周知のことかもしれないけど、まさかのデマも鑑みて、いちおう俳優さんの名前は伏せておきます。