天におまかせしてみても。
信じる気持ちって大事だと思うのです。
信じてるからこそ行動へ移すにもスムーズですし、やってみよう!の思いが最初はほんの欠片だったとしても、行動と結果の道のりに積もった雪をコロコロと転がして自信という名の雪だるまを作り上げていくこともできる。
一気にではないけれど、徐々に、でも確実に。
わたしにとっての「信じること」と「自信を育てること」ってこんな関係です。
自信は実証を重ねるごとに深まっていくものだ、と思うようになったのは、施術を学び始めてからです。
思っていた経過をたどらない
そろそろ良くなってもいいのに
というケースは、自分の腕が及ばないからだと思うことが多々ありました。(実際そうだったかもしれない)ですが、
技術の有無をいったん脇に置いてみる。
いまの自分ができることを
身の丈にあった歩調で進んでいこう。
できることはした上で、あとは天にお任せしてしまう。
そんなふうに思えるようになったのです。そしてこの変化は大きかった。
何せ心配性なところがあったので、なんでもかんでも「やらかしてしまったのではないだろうか?」という不安を幼い頃から抱えがちだったから。
天にお任せしちゃおう、と呟く時、わたしが思い出すのが夏目漱石のことば。
則天去私:天に従い私を捨て去って、より高い境地に到達すること
これは、漱石が晩年に達した文学観とも言われています。
意味をちゃんと調べてみたら
私利私欲を捨てて自然の大きな流れに身をまかせ、
自然の中でものを見きわめようとすること
とありました。
できてる、できてない
認める、認められる
勝ってる、負けてる
評価や価値を重んじる姿勢は、自分と他者との関係性があってこそ出てくる概念です。
自他の境界線があるから、わかることがある一方で
文学でも物理でも生物でも芸術など
それらがどんなに畑違いの分野であろうとも
何かを突き詰めていった先には
深い根っこの部分で密やかに手を
つなぎ合っているものがあって
そういうものを本質とか自然の法則や真理などと人は言ったりするのだろう。
つまり、境界線があるからこそ、わからないこともある、と言ったところでしょうか。
「わからない」ってお尻がもぞもぞ落ち着かないし
自分がちっぽけな存在になるような気もしてきます。
けれど、「わからない」があることで
知りたい、解明したい、という
陽のエネルギーに満たされるような気分にもなります。
まるで、植物が否応がなしに
太陽の方向へ向かって成長するかのような。そんな明るいイメージです。
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昨日、息子が挫いた足を診察してもらいました。それまでの経緯はこちらで書いてます。
レントゲンで見ると以前ヒビが入って完治していた部分が
ポロッと取れてしまっていて、
あぁ、本当に折れているんだということが一目瞭然でした。
まるで、ネズミがビスケットを齧ったみたい。
痛みも腫れも引いていても
日常生活に支障なく、歩行もできても
踏ん張ろう、本気を出そうと運動すると
痛みが生じるからには
やはりそれなりの原因があるわけで
ほんのわずかな骨折だから大丈夫ということもなく
折れてるなりの差し障り方が
いろんな形で現れることがよーくわかりました。
実は同じ箇所をすでに2回損傷している経緯もあり
もう少し慎重に対応もできたかもしれないと思うと
母としても施術者としてもちょっと悔やまれるところなのだけど。
今後は気をつけなくちゃいけない部位として
今回のケースを心に留めておこうと思った次第です。
ベストはいつも尽くされている
わたしはこの言葉を信じています。
どんなにゆるく生きていると思っている人でも、生きることに手を抜いている人なんていないはず。
わたしもできることはしました。
右足首に気を送ってみたり
体のバランスを整えていけるような施術を
日々のケアとして取り入れていこう。
ギプスしててもわりに歩けているようなのが救いかな。
まずは、経過を見守って
再診察を待とうと思います。