生命の端っこを見つける旅
わが家のリビングは東向き。時季ごとに窓から入る日差しの角度で季節を感じる。
春を迎え、この先はギラギラな夏が待っている…そう思うと「あぁ、わたしは生きてるんだなぁ」と感じる。いや、逆か。「わたし、生かされてるんだわ」の方が感覚的には近いかもしれない。
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だんだんとあたたかく感じる日も増えてきたせいか窓を開け放つ日も増えてきた。聴こえてくるのは鳥の囀り。その賑やかなおしゃべりにしばし耳を澄ましてみる。
で、ちょっと考えてみる。
この当たり前のように認識している「音」とはなんなのだろう?と。
飛行機の音、テレビの音、お湯がグツグツ沸騰する音…暮らしにはさまざまな音が溢れてる。
私たちはこれまで生きてきた経験に見合った量の知識を身につけていく。音に関しても同じで「これは〇〇の音」と経験的に学んだからそれを知っているし認識できている。
けど。
そのもの単体で「音」として成立してるものって実はひとつもない。かならず、何かと何かが物理的にぶつかったり、エネルギー的な衝突があったりして音は生み出されている。簡単に言うなら、生み出す何かと受けいれる何かとの関係性、みたいなものだ。
例えば…雨の音。
しとしと…と形容されるあの雨音も、葉っぱや地面にわずかながら当たる雨が音を作り出している。その物音を耳でキャッチして「あ、雨降ってるね」と認識するのが私たち。つまり「雨音」は正確にいえば、「雨が何かに当たってる音」というわけだ。
で、その雨。そもそも雨だって、海水の温度が上昇して水蒸気が雲を作り雨を降らせる。雨のもととなる海はいつもいつもうねりを伴ってたくさんの生物を生み出し、養っている。だからこそ私たちは海で育まれた海産物も美味しくいただけるのだ。
一方で、私たちがふだん使ってるトイレの水も無害化されて海へと流されてる。どこまでが恵みの海の水なの?どこから雨に変わるの?なんて聞かれてもちょっと(だいぶ)困ってしまう。海は海だし、どこまでが海でどこまでが雨水でどこまでキレイかなんて言い切れない。なにせ切れ目がないから。
その海で起きてる問題点の一つが海水温の上昇だ。南極北極の氷が溶ければ海水も上昇するし、それに伴い死滅する生物、逆に過度に増える生物もあるだろうし、沈んでしまう国も出てくるだろう。このように環境の変化がさらなる変動をもたらし、地球で生きる生態系へ大きな影響を与えていく。
…と。起きてることの原因や起きてる現象の元を辿るほどに、答えのなさ(果てのなさ)にたどり着く。そう、私たち人間も含めて、生命や現象自体、ぐるぐると循環し続けてることがうっすらながらみえてくるのだ。はじまりもおわりもなく、退化したり進化したりしながら生命は脈々と受け継がれていく。自然との連動、さまざまな物事との関係性あっての全ての生命。その一部を私たち一人一人も担っているのだ。
その微細な連携運動は、私たちには計り知れないほど緻密であり、信じられないほどの調和やバランスをもってなされており、そんな生態系システムのなかに、ひとつの生命として生まれた「わたし」や「あなた」がいる、ということ。
一見すれば、この体、この名前、この性格…と、「わたしはわたし」だし「あなたはあなた」と思いがちだが、この生命の果てなき「つながり」なり「関係性」を鑑みるならば。個人として単体で生きてます、なんて口が裂けても言えない。さまざまなものにときに偶然的に、ときに必然的に支えられている。そして支えられる側が意識する・しないに関わらず、誰かや何かを支えてもいるのだ。そうしたら断然「生かされてる」の表現の方がピッタリ、しっくりくる。そして、それが現実であり、世の理(ことわり)なのだ。
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春ってなぜか、ルーツをたどりたくなる。
それも、本質的な生命のつながりみたいな深淵なるモノについて。わたしがどこから来て、どこへ還るのか、みたいな。
春だったら、もっと浮かれてもいいのに。
春だったら、存在として「あれる」喜びをもっと味わえばいいのに。
そう思うのだけど。
芽や花々が一気に芽吹くこの季節だからこそ、生命の圧倒的な「不思議」に思いを馳せずにいられないのです。
わたしってこんな人です。が、あなたの中にも同じような要素は見つかるはず。だって、なにかしらどこかしらで支えあってる私たちだから。