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セラピー日記|自分と仲良くなる

生きるうえで対話は大事だと思ってます。(むしろ必須かも)

これはセラピストとしてのマインドセットという小さな側面を切り取るような話ではなくて、人間として生まれたからには、やった方がいいよ!と熱く語らずにはいられないレベルでの言及です。

ちなみにこの対話というのは、他者と、でもあり自分と、でもあり。結局どちらに話しかけようとも、わたしはこういうことが言いたかったのだなとか、こういうことに一番反応してたんだな、がストンと腹に落ちるような対話を指してます。

「自分は今、何を感じているんだろう」をていねいに観察し、自身に寄り添う姿勢は、メンタル的にもフィジカル的にも自分が思っている以上に重要です。


わたしの場合、もともと内を眺めるのが趣味みたいなものでしたし、セラピーを学んで以来、体のどこの部位がどんなふうに感じているかをより微細に眺める習慣がついたようです。

胸のあたりの圧迫感お腹にあるズーンとした重み、チクチクした頭部の痛み…など。その場所にもし口がついていたらどんなことを言ってそう?そんなふうに自分と対話しながら潜在意識的に抱えているモノ(ネガティブファクター)をリリースしていくのです。

当初はセラピーへの期待値もさほど高くありませんでした(そもそもセラピーがどういうものかよくわかっていなかった)。ですが、思っていた以上にやる前と後の自分の感情値が心地よく落ちたり、たとえセラピー直後には変化が感じられなくても、ふと気づいた時には問題視していたことがもはや問題ではなくなっていたりすることが多々ありました。プロのセラピストさんにワークしてもらったり、自分で試しているうちに、だんだんと感情はエネルギーに過ぎないことも体感できるようになりました。

流れては移り変わっていくのがエネルギーの本質でもあります。だからこそ、こうあらねばと決めつけたり変化しないように働きかけることがどんなに不自然かということも今ではとても納得ですきます。

徐々にではありましたが、「わたし」というカチッとした輪郭が溶かされていくような。自然との融合と言いますか、「全体に生かされてる自分」みたいな大きなものに抱かれてるような安心感が育まれるていったのを感じています(もちろん今も継続中)。

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自分の思考や感情を眺めるクセがつくと、自分が感じていた感情も思考も単なる「パターン」として動いていただけだったことにも気付くようになりました。

もし自分がイライラを感じていると仮定します。その際、相手側に自分をイライラさせたりムッとさせる原因があるのだと思ってました(ワルモノを他者にしておけば自分は正義になる!)。でも、よくよく心の反応の仕方を眺めてみるとそれは大きな間違いであり、むしろ勘違いでした。

つまり、イライラさせられているのではなく、相手の中に自分の中にあるイライラを写し込んでしまい、それがさも相手に非があって自分をイライラさせているかのように錯覚してしまう、ということなのです。

たとえば、他者が放つ自分への怒りも、真正面からキャッチしてしまえば自然と怒りとして反応してしまうでしょう。けれども、あえてスルーすることも場合によっては可能なことに私たちはあまり気づいていません。これは、どんな反応や感情を選ぶかの権利はこちら側にあるということで、それを選んだ責任は自分にあるということでもあります。ここに意識をむけられれば、自分のオリジナルの反応ストーリーから抜け出すことも可能なのです。

もし誰かから「ホント出来ないヤツだな」と言われたとしましょうか。そのひとの口の悪さや辛辣さは、実は放った本人の問題です。

「できないヤツ」に対して、もし怒ってしまう自分がいるなら自分が「できない」ことがダメだと思ってるということ。

できなくても別にいいんじゃない?と軽く流せる人は、「できない」ことに特別な意味づけを持っておらず、できない自分をいい意味で肯定できてるということです。

ですので、もし自分を変えたいと思うなら、自分がどんな感情的な反応をしてるかを糸口にしつつ自分がどんな思いを抱えて、そこにどんな意味づけをしてしまっているのかに気づくことが必要になってきます。

バラエティな他者との存在を通して、自分の感情や思考を見つめる「癒し手としての自分」との対話を(時に丁寧に、時にやさしく接しながら)重ねていくことがオススメです。

言い換えれば、自分との対話を通して自分と仲良くなる、ということでもありますね♪









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