ツバキ文具店…小川糸|他者の物語に耳を傾けるということ
ツバキ文具店は鎌倉で文房具屋を営みながら代筆業も請け負う主人公(愛称ぽっぽちゃん)のお話。
代筆って、筆耕さんのようにただ文字をキレイに書く人だと思っていたのだけれど…とんでもない!用途や目的に見合ったお手紙を、ぽっぽちゃんがイチからしたためていくのだ。
代筆は礼儀正しく毛筆でかしこまって書いてあればいい、というわけではないようだ。依頼人からのヒアリングがかなり重要で、込み入った話にもきちんと耳を傾ける。話をお聞きする際はいつもお茶をお出しするのが習慣で、暑い夏の日は柚ソーダ、寒い冬には番茶や葛湯など、季節にあったおもてなしをされてるのもいい。
完全にその人になりきり、手紙を引き立てる紙の素材選びや使う筆記具にわたって、ぽっぽちゃんなりに想像力を働かせながら手紙を書いていく。そのきめ細やかな心配りがステキ過ぎるのだ。もちろん、産みの苦しみも伴う大変な作業なことに変わりはないが、ここまで親身に心を込めて代筆出来る人っていないんじゃないかしら?
字がキレイなのは当たり前だが、完全にその人が乗り移ってしまったかのような筆跡や文面もお見事。小説のなかでは手紙の部分だけは手書きで書かれて写真として紹介してくれてます。小説の概念に縛られてない発想もステキだ。
作者の小川糸さんご自身がリフォームしたご自宅や愛用の服、料理に欠かせない調味料、大事に選んだ調理器具など…こだわりの暮らしを短めのエッセイとともに紹介された本も読んだことがある。ご自分の「スキ」にまっすぐで、糸さんのスタイルが揺るぎなく確立されてる印象を受けた。
日頃使うものほどお気に入りで埋め尽くしたい、そんな気持ちが伝わる。妥協せずに手にしっかりと馴染む「モノ」との出会いを大事にしながら、ゆっくり丁寧に関係を育んでいく。
糸さんのそんなお姿と、主人公のぽっぽちゃんの代筆屋としての在り方が重なってみえた。
代筆業はお相手の話にじっくりと耳を傾ける。この部分はカウンセリングにも近いと感じた。手紙を出す、という行為の裏側に隠れた繊細で言葉未満の想いを丁寧に掬いとっていく。想像力も要する。人に寄り添う優しさ、思いやりを汲み取りながら言葉を紡いでいく。
ちなみに大きく異なるのは、カウンセリングでは自分の物語をご自分で発見し紡いでいく、という部分。代筆には最初から手紙を出す目的があり、きちんと遂行されることで果たされる結果がある。
一方、心理カウンセリングは狙った通りにいかないこともある。むしろ癒しをムリに引き出さないことで癒しがもたらされることすらある。結果よりはプロセスを重んじる姿勢が大事だ。
だからといってどちらが劣ってどちらが優れているということでは全くない。手紙を貰う側が癒されるだけでなく、喜ぶ姿を見て依頼者が癒されることだってある。そして、依頼されたぽっぽちゃんも悩みに悩み抜いて手紙を書くのだ。もはや、その時のぽっぽちゃんはぽっぽちゃんではない。依頼人なり、手渡される側の人間の魂が乗り移ってしまってるのでは?と思うくらい。ある種の憑依力が代筆屋には不可欠なのかもしれない。
なりきる、ってある意味プロ。でも、そのものになってはいけない。というか、そのものにはなれないし、なれると信じすぎてもいけない気がする。
あくまで、寄り添う。余白は少しでも空けておいた方がいいし、距離は近すぎるほど盲目になる。難しいんだな、ここが。クライアントと言葉を交わしてるのはセラピストとしてのわたしなのだけれど、対話している2人を少し上から見ているような。そんな視点をいつも意識している。
ぽっぽちゃんは、どんなふうに依頼人の話を聞いてるの?と尋ねてみたい。そして、こんな子と友だちになりたいって思う。
余談だが、小川糸さんってニックネームをつけるのが上手。主人公のぽっぽちゃんは鳩子というお名前。お隣に住むバーバラ夫人や、ひょんなきっかけで知り合った小学校の先生のパンティー、口は悪いがダンディな男爵、いちばん幼い友人のQPちゃん、などなど。読んでるとついクスッとしてしまう。
そしてわたしの頭の中では勝手に登場人物たちが鮮やかに描き出されるのだ。こんな顔してるんだろうな、こんな格好で鎌倉の街を闊歩してるのではないかな、とかね。
小説家は登場人物に命を吹き込む天才だ、と聞いたことがある。小説のなかのお話だけにとどまらずに、日々の暮らしのなかに突如こんなキャラたちが現れたら面白いだろうな。こんな勝手な想像(妄想)を膨らませて読み手をニマニマさせてしまうところも憎いぞ。
人生にはいろんな色があっていい。いつもいい状態なのがいいワケでもない。変化する毎日を真っ当に受け入れながら、真っ当に笑ったり悲しんだりができるって実はしあわせなことなのだ。
ぽっぽちゃんにもぽっぽちゃんなりの傷を抱えてるエピソードも出てくる。誰にでもある若気の至りや黒歴史。そんな日々を懐かしく時に苦々しく思い出しつつも。淡々と毎日を生きながら、できることをしていく、という姿勢。毎朝の掃除シーンなんかにも現れてて深く共感せずにはいられない。
依頼人の言わんとする部分を深く熟考できるやさしさや視点もいいんだな。それをすごいことと思わせずにさらりと綴ってる糸さんもいい。
心の傷は後悔するためでも卑下するためのものでもない。自分が新たな一歩を踏み出すために活かしたり、同じように傷を抱えた誰かをあたたかく照らす灯として、ひらりと真逆に変換できる両面性がある。
物事は「いい」と「わるい」がワンセット。2つの視点は単に自分の立ち位置からの見え方が異なるだけなのだ。ここか腑に落ちるとジャッジが薄まる。むしろ、どんな状態の時も静かに「今」に佇んでいられる。これを「強さ」という人もいれば「安定」と呼ぶ人もいるかもしれない。わたしは「静かさ」にニュアンスが近い気もしてる。
鎌倉の空の下、まだまだわたしの頭の中で続くであろうツバキ文具店はわたしの物語でもある。自分の中にぽっぽちゃんを育てていこう。