「わかろうとする努力」なのかなぁと。-ことばの学校 講師:豊崎由美-
何度か豊崎社長をお見かけしたことがあります。まずは徳永京子さんの劇評教室にこっそりと参加されていた時、次は高山羽根子さんのトークショーを開かれた時。そして3度目はことばの学校の講師としてお見かけすることになりました。さて、どんな方なのだろう。
講義が始まると、豊崎社長はポツポツと色んなことを語り出しました。まずは本との出会い方、次に書評と批評の違いや目的について、そして書評におけるあらすじについてなどなど。豊崎社長が歩んできた道から本を読むということは何かが伝わってきました。特に驚いたことは、あらすじとは書き手が要約する際に内容を取捨選択をしている時点で批評であるということば。言われてみれば腑に落ちるけど、そのことに気が付かなかったなぁと思うのでした。
このように読むということについて色々な考えさせられた講義でしたが、私が一番気になったのは「わからない」ことについてなのです。本を読むということは他者と出会うためだと豊崎社長はおっしゃいました。そして幸田露伴の「」という言葉を用いて、作者から放たれたことばの矢が読者である私たちが受け止めることで初めてことばが通じるというのです。しかし、現状ではその矢は作者が直接読者に手渡すことを求められるような状況になってきています。つまり読者が「わかる」ように書かれている訳です。私はこの「わからない」と「わかる」について考えることが「ことば」を考える上で重要なのではないかと思うのです。
まず「わかる」とはなんなのか。大辞林を調べるとこんなことが書いてあります。
①物事の意味・価値などが理解できる。
②はっきりしなかった物事が明らかになる。知れる。
③相手の事情などに理解・同情を示す。
④離れる。分かれる。
(例は除いています)
他の辞書も調べてみると、①と③の意味を挙げているものが多いです。大辞林の説明も①と②の意味を現象を理解するということばでまとめることができます。③の意味には相手を理解するとある。つまりそこに他者性があるわけです。この③を意味することを他のことばで置き換えられないかなぁと大辞林で調べると良さそうなことばが見つかりました。
納得
他人の考え・行為を理解し,もっともだと認めること。
つまり「わかる」の中には理解すると納得するという二つのフェイズがあるのです。これを分けて考えないと「わかる」を分かることができないような気がいたします。豊崎社長が語られたユリシーズを読んだ体験を例にそのことを考えてみようかと思います。
豊崎社長は若い時にユリシーズを読みました。その時は内容を理解できたけれど、登場人物たちの行動に納得できない状態でした。大人になって読み返すと、登場人物たちの行動に納得できるようになっていました。この状況を「本に選ばれた」と豊崎社長は語っております。本に選ばれるまで豊崎社長はわからないに付き合ったわけです。なぜわからないに付き合うのかというと、本の中に他者の存在があるからです。
講義を終えて思うのは、豊崎社長は好き嫌いはあるのだけれど、人という存在が好きなんだろうなぁというものでした。
今の世の中、理解することはできても他者を認識してさらには納得することがなかなか行われなくなってきています。そのため、色んな軋轢が生まれているように思います。この豊崎社長の「わからない」ことの取り組みを参考にこのことも考えていければいいなぁと思うのです。