孤独の濃度-FUKAIPRODUCE羽衣『おねしょのように』評-
このコロナ禍で生活は一変しました。仕事も通勤せずにテレワークになりました。定期もないので都心に出る機会も減りました。その結果、外での食事する機会も、観劇する機会も減っていきました。そして私のいる部屋そのものが世界の全てとなり、外との隔絶がより強固なものとなり、他者との距離が遠いものから断絶されたものに変わったように感じるのです。それは外の世界を意識できないがために私の身の置き所が定まらないとても恐ろしいものに感じるのです。その意識できる部屋だけの世界でどこまでも意識だけが広がって沈んでいくのです。
FUKAIPRODUCE羽衣の『おねしょのように』は東京芸術劇場のシアターイーストで2021年3月7日から14日まで深井順子が主人公のAチームと日髙啓介が主人公のBチームの4回づつ、計8回の上演を行いました。私は3月7日のAチームとBチームの初回を観ましたので、その点についての感想を書こうと思います。
舞台には輪っかで作られた煙と湯船のみがあるのみでした。主人公はおねしょをして起きあがり、乳母や主治医、料理長、運転手、詩人に世話されながら風呂に吐いたり、たばこを吸ったりしています。おねしょで濡れた布団を干したりしたりしていると友人がやってきます。主人公を友人に誘われて車でキャンプ場にやってきました。野犬に襲われたりしながらも大自然を満喫した主人公は友人とかくれんぼを始めました。友人が鬼で主人公は隠れる場所を探し、布団の中に隠れる事にしました。そして消えてしまいます。残るのは布団に残るおねしょの臭い。その臭いを友人は見つけるのでした。
FUKAIPRODUCE羽衣は多くの孤独を描いてきました。それは集団の輪に入れない孤独であり、他者との遠い距離感を描いてきました。でも今回の作品では違います。絶対的な孤独を描いたのです。パジャマ姿の主人公は暗い世界で生活しています。その主人公に差し込む日の光が唯一の外との繋がりのよう。つまり主人公は外の世界から離れた場所にいる訳です。友人によって外の世界に連れだされたのに、結局主人公はおねしょ布団の中に隠れてしまう。その孤独の中に引きこもってしまうのです。外の光を良いものだと認めつつも自然の中でワイルドになってみても結局は布団の中に潜り込んでしまう。それは母親の体内から知るものいない世界へ放り出された赤ん坊のような心細さからくる行動。ただ泣くことで、おねしょをすることでここにいることのアピールをするしかない。いや、せざるを得ないのです。でも今はその母親がもういません。その心細さからくるおねしょを引き受けられるのはもはや布団だけであり、それもある程度しか引き受けることができないのです。タバコの煙のように霧散してしまう不安とおねしょのように漏れ出してしまう孤独で溢れています。
今回の作品は主人公を深井順子と日髙啓介のダブルキャストで上演しました。同じ作品であるはずなのに、伝わってくる印象が違うのです。深井順子のものはどこまでもその絶望を感じるのだけれど、日髙啓介のものその絶望への諦めを感じるのでした。それはそのまま2人のもつ身体性や内面がそのまま溢れ出しているような印象なのです。この脚本を描いている糸井幸之介を含めた3人がコロナ禍から立ち上がるための作品のように思います。
※期間限定で戯曲を公開中のようです。