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発達障害児の育児と孤独①私の場合

レアな育児をしているので、共感を得ることは難しい。しかし若いころの私は、苦しさのあまり愚痴を止めることができなかった。止められないのに、相手からいらぬアドバイスを引き出し、傷つくという、マッチポンプのお手本のような行動をとっていた。

その相談相手は私のことをよく理解してくれている親友だ。彼女たちを貶める気は一切ない。その上で「わかってもらえない」のが発達障害児の育児の本質だ。


療育が終わり、帰りの電車でじっとしていられない息子が、常同行動をとっている。その時は両方の手を対になる長袖の袖口から、逆に手を突っ込みぐるぐると手を回し続ける。いーとまきまき、という曲の冒頭でジェスチャーされるアレだ。

近くにいた老人に落ち着きがないと叱責を受ける。静まり返る車内。急ぎ非礼を詫びつつ、息子と目を合わそうとするが合わない。これは下手をするとパニックを起こす予兆。気をそらせるグッズを出すか移動するか、逡巡する間に、見かねたご婦人が、息子に「手を止めてみよっか」と声を掛ける。時が止まったようにフリーズし、身じろぎ一つしない息子。ね、言えばわかるのよ、と微笑み返すご婦人。まだ言いたげな老人は舌打ちをして引き下がった。緊張が走った周囲の人たちから安堵のため息。やれやれとセリフが聞こえてくるような視線。何が起きたか理解できず、無心に爪を噛んでいる息子。駅の到着を告げるアナウンスとともに、老人とご婦人にお詫びを伝え、すみません、すみませんと人をかき分け、子どもの手を引いて、降りる予定のない駅を降りていく。

老人の主張はもっともだ。ご婦人は100%善意で、周りの人も穏便にことを運びたいと願う人々だ。その中で息子は発達障害ですと理解を得るには関係性が薄すぎる。パニック回避のため他の方法を探っていた私は、しつけのなっていない親であり、手助けが善意であっても、成功しただけに(エゴ丸出して言うなら)惨めだった。ヘルプマークのない時代に背の高い息子が優先席に座れるはずもなかった。一つ一つ不運な偶然が重なり、それぞれの正義と善意がなされただけで、誰の記憶にも残らない出来事でしかない。なのに私一人、深手を負い、孤独だった。

当時、"他者比較より、昨日の息子を比べれば成長している"…などの正論は私を救わなかった。
自分自身が納得していれば、誰に理解されようがされまいが関係ないのだけれど、自分とは全く違う価値観で育児が進行し、心の基盤がぐらぐらな状態で、第三者から批判を受けると、自己効力感と自尊心を削られてしまう。

誰か助けてほしいと心は叫ぶけれど、自分でどうにかするしかなかった。

孤独が育児を困難なものにしている。

それを思い出すtweetについては、次につづく。

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