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枯渇したコップを満たすために孤独を生きている

枯渇

何をするにしても誰がどう思うかを意識している自分がいる。
こんな風になるつもりはなかった。
だが、いつの間にか抜け出せないところまできてしまったようだ。



人生で一番不幸なことは、自分を偽って生きることだと思う。
常に誰かの機嫌を伺い、他人が傷つかないようにするために自分が犠牲になることなんて最悪な選択だし、そんなことは頭の中で分かりきってる。
けど、頭の中で理解するのとその自虐癖を直せるかどうかはまた別問題だ。
真の理由はどこにあるのか、考えて、考えて、考え続けなければならないと思う。



結局のところ全ては自分自身の欲からの行動だと思っている。
何欲かと考えればおそらく承認欲なのだろう。
私は誰かに認めてほしいのだ。
だが、誰に認めてほしいのかを突き詰めれば突き詰めるほど分からなくなった。
学校の先生?
親?
会社の上司?
社会?
人間?
全世界のあらゆる人々?
頭の中で上記に提示した者に認められた自分を想像してみる。
多分、その瞬間は嬉しいのだろう。
喜びに満ち溢れるのだろう。
でも家に帰ればきっと一人また虚しい気持ちに襲われるのだ。

私から私へ犯した罪

この感情の起源はどこにあるのか考えてみた。
始まりは小学生くらいだったように思える。
私は運動が苦手で肥満体型だったこともありそれが影響して周りから弄られていたのだ。
それがコンプレックスでダイエットを行った結果、体重を10 kg減らすことに成功した。
にも関わらず、中学に進級しても、体育の授業では馬鹿にされ、チームスポーツでは使えないやつだと厄介者扱いされることが多かった。
誰かからボールというバトンを受け取った瞬間に思考が停止してしまうのだ。
『お前がいなければ勝てたのに。』
そうやって言われるたびに私の心は悲鳴をあげていた。
でも愛想笑いを浮かべるのだ。
きっと相手からは気持ち悪いやつに見えていたに違いない。
何かといじめのターゲットになっていたことを覚えている。
学校には居場所があるようで無いようだった。
私はいつも空き時間は図書室か音楽室に入り浸っていた。
こんな状況でも家庭に居場所があったならと思うことがある。
でも現実は違かった。
家庭では、金銭面で困窮に陥っておりたびたびお金のことを気遣うことが多かった。
部活動をするとき、修学旅行に行くとき、全てに関してお金が発生する。
いくら必要なのかというのを嫌な顔で問い詰められるのだ。
だから、私はお金のかからない部活に所属したり負担をかけないような行動を心がけた。
受験期ではさらにエスカレートし、なるべく受験費用をかけたくないから
推薦取れの一点張りなのだ。
私は行きたい学校があったがお前じゃ無理の一点張り、先生との三者面談でも
『この子の能力じゃ無理なので、推薦をとって確実な方を進んだ方がいいですよね。』
と私を厄介者のように扱うのだ。
それでもなるべく負担をかけたくなかったから私は親の言うとおりのいい子を演じた。

でも、そんな努力とは裏腹に親は私に残酷な一言を言ったのだ。
『お前なんか産まなきゃ良かった。産まなきゃ金がかからないのに。』

いつしか、『僕はこんなに我慢して耐えているのになんでこいつら(人間)はこんなに僕のことを阻んでくるんだ?』と歪な感情が芽生えた。

いつか何かが変わると思っていた。
でもそんなことはなくて、高校でも、奨学金を全額背負って進学した大学でもいじめと金と家庭の問題は無くならなかった。
どこへ行っても何かに阻まれるのだ。
まるで抜け出せない蟻地獄の中で延々ともがくことを誰かが望んでいるかのように。
お金の問題は、就活の際にも直面した。
幸い、バイトで貯めたお金で交通費など賄えたが家族からの援助が進学や就活などでもらえている奴らの話を聞くと虫唾が走るようになった。
『あいつらはなんの努力もせずに援助をもらえるのになんで僕はこんなにも阻まれるんだろう。なんで、僕を誰も助けてくれないんだろう。』
そうやって心の中のSOSは大きく膨れ上がっていた。
でも、私はそのSOSを無視し続けたのだ。
幼少期から鳴り響くSOSを。

満たされないコップ

社会に出て、何かに阻まれるような蟻地獄の中にいるような感覚は未だに続いている。
最初は辛いことも多かったが、色々なことを経験で学んでいくうちに段々と自分にとっての嫌悪の対象、状況、環境を見極め避けることを覚えるようになった。
おかげで現在はそういった対象や状況、環境に出会しても流されることは無くなった。
それでも、やはり限界はあってどう足掻いても避けられないもの、逃れられないものはある。
そういう意味では私はまだ蟻地獄から抜け出せていないのだ。
きっとこれは満たされないコップのようなものだ。
コップの中に水が満たされていればスムーズにゴールまで行けたはずがスタート地点で既に枯渇していたのだ。
だから、少しの水を求めてはまた枯渇してまた何かに悩みまた少しの水を求める。
こうなってしまうと承認という名の水を求め続ける旅を続けることになる。
だから、私のような逸れものはなんとか自分で自分のコップを満たす術を覚える必要があるのだと思う。

自分を愛するということ

コップの中の満たされなかった想いを満たし切ったときに本当の意味で自分を愛せるんだと思う。
そして、そうなったとき本当の意味で人を愛せるんだと思う。
私は、人は皆生まれてきたからには幸せになるべきだと思っている。
幸せは誰かに与えられるものじゃなくて自分がどう感じるかだと思っていて、そうやって幸せを感じられるような心を鍛えるまでコップの中の満たされなかった想いをちょっとずつ自分自身で満たしていく旅は続いていくんだと思う。
それが私の人生なんだって、
それが自分を愛するということなんだって思った。
だから、私は自分を愛するために必要なことを色々な知識をインプットして学んでいかなければならないのだと思う。
色々な考えを頭の中で巡らせては自分なりの正解を見つけ、過去の自分を見返せるくらいに、よく頑張ったねと言えるくらいに努力し続けなければならないんだと思う。
並大抵の努力ではないがそれでもそれが私の人生の意味なのだと思う。
そういうものがないとやってられないくらいの世界だから私は私で在り続けるために自分自身と闘う。

最後に

これを読んでくれたあなたにとってこの文章が自分自身と闘う糧になったのなら幸いです。


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