1/28『聖地アッシジの対話』から
おはようございます。
今朝はなぜかエアコンをつけると鼻水が出るため、薪ストーブを焚き始めました。こうなるともぅ外に出かけません。ちょうど「まぁるい虹」の原稿にかかる時期でもあり、お天氣もいまひとつ。今日はじっくり仕込みをしましょう。
今朝読んだ『聖地アッシジの対話』は、当時文化庁長官だった河合隼雄と、日本に29年いたカトリック大司教ヨゼフ・ピタウの対談です。
アッシジはイタリア中央部に位置する聖フランチェスコゆかりの聖地。
河合先生は鎌倉期の高僧である明恵上人の夢記をもとに『明恵 夢を生きる』を書かれた。この明恵と聖フランチェスコはほぼ同時期に生き、自然の中での祈りを続けたという点で共通しています。さらに両者は動物に慕われたり、会話をしたりといったエピソードが特に多い。
仏教の明恵とキリスト教のフランチェスコ、この偉大な二人の聖人について語り合い、その延長線上にある「これから私たちはどう生きるか」に言及しているのが本書。
ちなみに上智大学学長も歴任したピタウ氏、対談は日本語で行われたそうである。
河合先生が「日本人は西洋近代に生まれた個人主義を取り入れようとしているが、キリスト教の倫理観抜きにしてしまって利己主義になるおそれがある」と懸念されていた件に関して、かなりつっこんだ話をされている。
実際河合先生が生きておられたころより(この対談は2002年)、さらに日本人の危機感は増している。
ワタシのようなものでさえ「このさき日本は大丈夫か」と憂いずにはおれない今。
毎回ZOOMのおしゃべり会では、政治家のふがいなさを嘆き、「いったいどうすりゃいいのよ」と憤慨しながら、一方でなにもできないオノレに対してのジレンマを抱えていたが、本書を読み「ワタシにもできることがまだあった」と思えたのだ。
それは何だよ、え、何なんだよ。
と思ったあなた、それをここに書いてしまうと、たぶん読んで終わりです。
何でも簡単に手に入るようになって、その代わりに失ったものが多い。
仮説を立てて考える。
大体において、仮説が思いつかない。
だから、どこかのだれかが言ったことをコピーして、みんなおんなじことを言っている。責任のない発言ばかりが横行する日々。
だから、よーくわかるのだ。
「内田樹が言ってた」とか「河合隼雄が書いてる」となれば、自信を持って断言できる。
オノレの考えは「あやふや、あいまい、つかみどころがなく、まとまらない」のが常でございます。そこから逃げずに、粘り強くこれらと格闘を続けるのはけっこうハード、かつ時間もかかるんですよねぇ。
暇か、それを仕事にでもしてない限り考えない。それが今の日本の常識となった。
外来のものを取り込むのがうまく器用な日本人、そのデメリットは今や道徳や家族といった支えを失ってしまったこと。見た目まぁまぁいいけど中身はペラペラのハリボテ。
本書を読みながら、
うーん、いたた、
と何度も思いました。
時折、ぐさぐさ、いたた、というのも読書の醍醐味です。
相変わらずオノレの浅薄さに呆れ、それでも「ドンマイ」と立ち上がるの繰り返し。
ではでは、今日もご機嫌元氣な1日を。
お付き合いありがとうございました。
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