『ジョーカー』の完璧すぎる続編 映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
本記事は、若干のネタバレを含む。
『ジョーカー』と『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
今作は、観る者の期待を裏切る内容になっている。
しかし、それが良い意味であるか、悪い意味であるかは、
本作に、そしてジョーカーに何を期待するかによるだろう。
私は個人的に、良い意味で裏切られた。
最初にざっくりと前作との違いを言うと、
前作は”孤独の輪郭を、ジョーカーという形で具現化もの”であるのに対し、
今作は”前作で具現化した孤独を真っ向から否定し、現実を正面から描いたもの”
であった。
つまり、本作に込められたメッセージは、前作のものとは真逆なのだ。
両作の監督であるトッド・フィリップスが、前作の『ジョーカー』に熱狂した者たちの両肩を持ち、「目を覚ませ!」と揺さぶったようだ。
「目を覚ませ。ジョーカーは自分の分身などではない。
そもそもこの世にジョーカーは存在しない。いるのは、”自分”だけだ。」
前作の鑑賞で以て持ち得たジョーカーという虚像を、粉々に破壊してくる、そんな内容であった。我々は、前作の『ジョーカー』を知る前の状態に逆戻りさせられたのだ。
トッド・フィリップス監督が描いたジョーカーは最早二部作と言っていい。
彼のジョーカーは、『ジョーカー』と『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
の両作の鑑賞を以て、初めて完成するのだ。
どちらか一方だけでは絶対に駄目だ。
一作目で終わりにしておけば…との声が上がる作品もちらほら存在するが、
本作は決してそんなことは思わせない。むしろ、フォリ・ア・ドゥがなければ、
彼のジョーカーは作品として終わらないのだ。
あまりに完璧な続編を目にし、私は鑑賞直後、頭が混乱し、すぐには椅子から立ち上がることができなかった。鈍器で殴られたかのような感覚に見舞われたのだ。
鑑賞から1時間程が経った今もなお、手の痺れを感じている。
個人的には、前作よりも今作の方が好きだ。
本作の映像部分について
前作で現代社会に生きる我々の孤独を見事に具現化したアーサー・フレックであったが、結局、彼も我々とそう大きくは変わらない、”特別ではない孤独な人間”のうちの一人であったのだ。
後に孤独に倒れることになる彼の、最後の足掻きが本作で映し出されている。
そして、ジョーカーといえば、いつも隣にいるハーレイ・クインである。
しかし本作では、彼の傍に彼女はいなかった。
ジョーカーがハーレイ・クインを得られなかった世界線と言える。
レディ・ガガ演じるリーがその役目を担うのかと思いきや、そうではなかった。
考えてみれば、それもそのはずである。なぜならジョーカーなど端から存在せず、
彼はずっとアーサー・フレックという男であったからだ。
次に、本作の映像や音楽についても触れておきたい。
本作も、やはり全体的に暗い色彩であるが、看守の使う傘など、
所々にジョーカーの世界観を思わせる色使いがされている。
アーサーの孤独を表現したような、グレーの世界の中に登場する印象的な眩しい色使いが、観る者に後半のジョーカー登場を予感させた。
また、前作からパワーアップしたのは、内容だけではない。
音楽もそのうちの一つだ。
本作では、レディ・ガガの歌声をたっぷりと堪能することができる。
レディ・ガガ出演の映画作品といえば、2018年公開『アリー/スター誕生』があるが、今作は、一人の女性が歌手としてスターダムを駆け上げる様子を描いたアリースター誕生よりも、歌唱シーンが多いかも知れない。
多くの名曲たちが登場するが、レディ・ガガが本作のために描き下ろした曲が一曲だけあるようだ。
それは、映画のタイトルにもなっている「Folie à Deux」だ。
フォリ・ア・ドゥ 「妄想が伝染した二人」
本作のタイトル「フォリ・ア・ドゥ」はフランス語で「二人狂い」を意味し、
妄想が伝染する精神疾患の名称でもある。
今作がいう「二人」は、ジョーカーとハーレイ・クインのことだろうと、鑑賞前の私は思っていた。
しかし、前述した通り、ハーレイ・クインはほとんど登場しない。
そこで改めて「妄想が伝染した二人」について考えてみる。
物語後半、アーサーの空想シーンが度々登場する。
その空想の中には、漏れなく”もう一人の彼”が登場する。
そう。妄想に伝染したことで作り上げられたジョーカーだ。
つまり、本作でいう「妄想が伝染した二人」とは、孤独に苛まれた男アーサー・フレックと、彼が作り上げようとした虚像ジョーカーのことである。
そのことに気がついたとき、前述した本作のメッセージが、脳内に直接伝わってくるのだ。
前作を遥かに凌駕する衝撃作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。
孤独と隣り合わせに生きる我々に、強く刺さる作品となっている。